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生きる希望となるお話を聞きたいです。

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とにかく死にたくて苦しいです。
希死念慮はずっとありましたが、特にここ2年ほど、発作のように強い希死念慮が湧いてきて、のたうち回るような苦しみを感じます。

以前は医療職で働いていましたが、いろいろな事情からその職を手放し、現在電話での受付業務で働いているのですが、元々人と話すのが苦手な人間なので、電話業務は苦痛でしかありません。うまく対応できずお叱りを受けることもしばしばあります。しかしこういう働き方がしたいと探した結果、うまく条件に合った職場だったので、なんとか頑張って勤めています。パート勤務で、生活はギリギリです。

幼少期からずっと人間関係は上手くいかず、社会生活にも苦痛を感じていて、それでもどうにかこの先生きていく光は見えないのかと思ってきました。20年近く心理学、心理セラピー、瞑想等いろいろお金と時間を費やしましたが、現実は死にたい苦しみに襲われる日々です。

友達作り、趣味作り、婚活のようなこともしたことがありますが、現在独身で親しい友人すらおらず、家族とも疎遠で、現在在宅勤務のため雑談一つする相手もいない環境です。(通勤していたときも孤立していましたが)
診断を受けたことはありませんが、幼少期の自分と周りの環境を振り返り、おそらくシゾイド系の人格障害の傾向があるのだろうと感じています。医療職で働いていた経験から、薬を飲む気にはなれず、病院に行くという選択肢は今のところありません。

自傷行為はしたことがなく、自殺は最もしてはいけないことだと思っているところがあり、おそらく私は自殺することはないだろうと思います。

ただ、この苦しみに襲われたとき、何か希望となるようなお話をいただけませんでしょうか。

2022年12月2日 17:28

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が愛おしい

なばな 様 相談ありがとうございます。

シゾイド系の人格障害かもしれないということで、人と関わることを避けて一人を好む。それで終わらず希死念慮がまとわりつく。そんな感じでしょうか?
幼少期から成長するにあったての愛着が上手く築けなかったことが原因かなと推察しますが、築けなかったのは、あなたのせいでもないし、あなたに責任があるわけではありません。あなたは悪くないのです。ですので、まずは自分を責めないことを前提にとことん癒やすこと。安心安全を感じる何かをすることを繰り返し繰り返しいろいろと試みることをお薦めします。
過去にセラピーなど沢山受けたようですが、自分を悪く思わない、そして癒やして安心を感じて、優しさや思いやりを自分に向けることを継続的に続けるのがよいと思います。
自分に思いやりを向けるとは、下記のお釈迦様の言葉を参照に考えてみてください。
「自分をいとしいと知って、自分をよく守りなさい」
「自分の最大の理解者は、自分しかいない。自分以外の誰が、自分よりも心を把握し、常に寄り添ってくれるだろうか。だからこそ自分を大切にしなさい。大切にすること、守ることとは、甘やかすことではない」
「どこを探しても、自分より愛しいものは見つからない」
「自分が愛おしいなら、自分を悪いことに結び付けてはならない」

私はこう思います。
自分の人生は自分が主人公。あなたらしく生きていいのです。
夢や希望を持っていいのです。(持っていると思いますが)
その夢や希望は、どんなに宇宙が広くても、その場その時で叶えられるのはあなたしかいません。あなたは貴重な存在なのです。素晴らしい存在なのです。
充分にこれから生きて、生ききって、人生を味わい尽くしていいのです。
以上参考にしてください。一礼

追伸:早速にお礼メッセージありがとうございました。宜しければ、誰も話し相手がおらず不安が続くようなら、メールなどでやり取りができますので、ご連絡ください。コンパッション(仏教でいう慈悲:思いやり)を育てることを主にしておりますので、ご検討ください。繋がることで、見守られている安心を感じることが出来るでしょう。ご縁に感謝申し上げます。再礼

2022年12月3日 22:12
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個別相談可能
お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリング、コーチングなどで活動しています。 メールでの相談も受け付けています。hasunohaの回答後のフォローアップはメールで致しておりますので、メールでお問い合わせください。また面接でのカウンセリングセラピーをご希望の方もメールで連絡をお願いします。 honsyoji.sk@ddknet.ne.jp へどうぞ。
昼間は、ほとんど法務に出ておりますので、夜の応対になります。 できれば、事前にメールで相談内容を教えていただければ、スムーズなセッションになるように思います。 プライバシー、相談内容の守秘義務は遵守いたします。

苦しみの原因はエゴエゴアザラシ(我)

「嫌だ」という心理の探求をする。
「生き苦しい」という心理をみつめる。
ああ、思い通りにならない。
ああ、嫌な人たちだ。
ああ、誤解されて辛い。
ああ、嫌なことがある。
ああ、あんないい方しなくてもいいのに。
ああ、こんなことなら死にたい。
ああ、息苦しい、生きるのがくるしい…。
その主語は誰か。
❝わたし❞が!
あなたの身心というより、あなたの中の「アタシ」という我の意識。
釈尊に我はありません。
祖師にも我はありません。
もちろん、お若いころはみな我に苦しまれた。
だから、みんなこのどうしようもなく自分を苦しめるものの正体が何かを追及された。そうしたらそれはみんな自分の「私が私が・自分が自分が!」という我の意識だったのです。身は自ら苦しいとは言わない。心は何もしなければ純粋な思いが内側から生じてくるだけです。
それに抗うものがいる。
それを着手して色を塗り替えようとするものがある。
こうしたい。
こうならないかな。
こうだったらよかったのに。
こうするべきだった。
ああ、私のバカ、自分のバカ、と自分を責める真犯人もエロ自我意識。
なんという厚かましく、そして自己中心的で、自分を苦しめる嫌なやつでしょうか。それがなんと、しかも自分の我という働き。
それが全人類に救う「自我・エゴ・我・オレオレ意識・マイルール・マイ都合・わたしにとって」という安い主人公意識である「我」というものなのです。
だから道元禅師は仏道をならうということは、自己意識である「我」(自己意識)をわすれることだ!と説かれるのです。そして、それを知って、そうか。我を無くせばいいのかぁ、ではなく、自分で真剣に自分を苦しめる真犯人の我をこそ👊仏智のめしにしたるわァ( ゚Д゚)というほどの決意が大事なのです。自分の歯は自分で磨くしかない。同じく自分の我も自分で収めようと思わん限り、自己中心的な発動や自分ラブなどの自我自我した心の動きは永遠に収まりがつかない。
私も死にたい死にたい思うこともありましたが、この我という厚かましい内なるエゴエゴアザラシ(仮名)を仏智によって仏智メル!( ゚Д゚)👊ことで苦しみは半減どころか、生滅しました。しらんのよ、人間。まさかこの自分に我があるなんて。向き合わんから。自分の我に。ね。価値あることです。
我をなくしてぇな、と思ったら真剣に仏道=自我を忘ずる道を求めてください。

2022年12月3日 22:25
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
ご丁寧な回答、ありがとうございます。
忘我という言葉は聞いたことがありましたが、そういうことだったのかと。ご回答を読んで、なるほど我を忘れるのね、と軽く捉えていたところまで見抜かれているような気がしました。
私を苦しめるのは我の意識。エゴエゴアザラシというなんとも憎めないネーミングの憎らしい存在を仏智のめすという覚悟を持つこと。自分と向き合うの意味合いが、これまでとは全く違うものになると思います。
エゴエゴアザラシとの対峙、簡単ではなさそうですが、だからこそやりがいだと思って頑張ってみます。
この度は本当にありがとうございました。

釋孝修様
ご丁寧なご回答、ありがとうございました。
改めて振り返ると、ずいぶんと自分を責めて来たことに気付きました。それも無意識だったし当然のことだと思っていたので、自分で自分を責めていることにすら気づいておりませんでした。
自分を愛しいと思うこと。自分を大切にすること、守ること。そしてそれは甘やかすことではないこと。
これは、私がこれまで全く知らなかった、自分に対する新たな認識方法だと感じます。
とても優しく寄り添ってくださり、癒しを感じています。勇気を出して質問して本当に良かったです。
本当にありがとうございました。

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