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自分の子どもにだけ優しくなれない

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有り難し有り難し 29

この相談に目を通してくださりありがとうございます。
以前に何度か相談させていただいています、今回は子どもを丸ごと受け入れるには…という切実な相談です。

私は今年の5月に第一子を出産しました。
子どもが生まれる前は、楽しみというよりは不安が大きく、それでも「あなたは大事な子だよ、味方だよ」と言葉にできるお母さんになりたいと思っていました。
しかし退院前日の日にこれからの生活(夫は仕事が忙しく、私も完璧主義なところがあります)が不安すぎて一睡もできず、常に頭の中が不安でいっぱいとなり、出産後まもなく、うつと診断されました。
その後に自分の中で「こんなことになるなら、産まなければよかった」という強烈な考えに支配され、今でもぬぐいきれていません。
そのせいか、子どもを目の前でお世話しているのに「この子がいなければ…」(仕事が続けられるのに、楽なのに)という最低な気持ちになり、自己嫌悪も相まってとても苦しいです。
また実家の家族や夫、他人には優しく思いやりが持てるのですが、上記のように自分の子どもにだけ優しい気持ちになれず、ほ「私の人生を邪魔する人」という見方をしてしまいます。
本当に最低ですよね、生まれてからこんな気持ちになるなんて思ってもみませんでした。
こんな悪い考えを手放し、せっかく生まれてくれた、しかも可愛い盛りの子どもを、丸ごと受け入れたい、丸ごと愛したいです。
こんな自分勝手な私でも母になれるのでしょうか…。
結局私の気持ちや子どもに対する意識の問題だと思うのですが、もしご助言いただけましたらありがたいです。

2022年12月15日 14:24

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはまだ子供にちゃんとお会いできていないのかもしれません

人は自分がいっぱいいっぱいだと自分の事だけで精いっぱい。
色々お辛いことが重なって心に余裕がなかっただけですよ。(´-`*)大丈夫。
アレしなきゃ、これもしなきゃに追われているだけだと思いましょ。
1000ページある本を読むにも1000ページいっぺんに読める人は誰もいません。一ページ目だけ、一行だけ、一文字だけでいいのです。
わかるところだけでいいのです。
読まなくてもいいのです。本よりも現実。
昨日はダメだった、ではなく今をいきる。
明日頑張ろうよりも、今をやる。
今を生きようではなく今この文字を見る。
心の中でおしゃべりモグラがあれしろこれしろうるさいですが別のところに向かわせようとほのめかすだけ。耳を傾けても心を傾けてもいけない。
あなたの真実の主人公はあなたが頭で考えたことではなく、毎回新しい呼吸をしている今の一呼吸のあるところ。事実。
「👿きっとああなるにちがいない。こうなるにちがいない。」と思った結果、何割ほどその通りになりましたか?ちゃんと記録を取ってみてください。
事実は思ったことと全然違っていたはずです。
実際はそうではないのだけれども自分が思い込んでしまう不安・恐れ・妄想に対して拒絶の心が生まれているだけですが、現実にそうなってはいないはずです。つまり、自分が最優先で選択していることが「私の考えた妄想」なのです。
お子さんがいなければ、と思うのも実はあなたの負の思い=妄想です。自分を苦しめる思い。
どうして人間は自分を苦しめるような思いを求めてしまうのか。
実は今苦しいことがあるからです。
それを消そうとして、より刺激的なことを求めてしまう心理も生ずることがあるのです。
まずは、現実・実際は今まであなたの不安妄想の中で思われたような結果には「ならなかった」はずですから、そこをちゃんと信じるべき事実として自信をもって最優先する。
誰でも「もし…」と、自分が傷つくことをおそれているのです。
現実は違う。
あなたはかわいい生まれたてのお子様のお母さんとしてのやるべきことだけを今、そこでやっていればいいだけです。大丈夫です。
明日のおむつ替えは明日やればいい。
今、泣いたら泣いてるということと一緒になって一緒に安心しようねと安心させてあげたいい。
カメラですら過去と未来は映せません。
肉眼に映らないものはみな妄想。
今の事だけちゃんとすればいいのです。

2022年12月15日 16:57
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

あたたかいアドバイスをいただき本当にありがとうございます。
負の思い=妄想で、肉眼に映らないものはみな妄想。
今の事だけちゃんとすればいい。という言葉にすっきりいたしました。
ご助言いただいた通り、私は妄想を作り上げて、その中で苦しんでいます。
今できること、目の前にいる存在をに集中して、向き合おうと思います。
ありがとうございました。

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