「真実の善悪」を示すには
ある日「A人」が「B人」に過ちを犯しました。
ちなみに「過ち」とは
「不満や嫉妬による陰湿な暴力・嫌がらせ」
「非難(喚く)・罵倒・嘲笑などの誹謗中傷」
「俗物的依存や偏見による怠惰な行い」
のことです。
ですが「B人」は数日前に「A人」に過ちを犯しました。
ですが「A人」は「B人」とは違う「C人」に過ちを犯しました。「B人」はそれを知った上で「A人」に過ちを犯したのでした。
しかし「C人」は「D人」に過ちを犯してました。
もし「A人」は「C人」が過ちを犯したことを知った上で過ちを犯したのなら、ちゃんとした制裁の動機になります。
ですが、もし「D人」が別の人「E人」に過ちを犯した人間
又はその数日前に「D人」が「C人」に過ちを犯したからであること。
又はそれを知らず過ちを犯した場合「A人」は只の自分を正当化…基過大評価するクズになります。
現実ではこういうのが沢山あるかもなので本来裁かれるべき人間が裁かれない事が多いです。
どうすればよろしいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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業は人ではなく行為
初期仏教の見方では、AとかBなどと言う不動の誰かがいるとは見ません。
Aという心身の連続がある時体を使って善い行いをした、とか、言葉を使って悪いことをした、などと言う行為が、業になって、しかし同じ心身の流れに刻み込まれて他人にその業は行きません。
完全に善だけというのは悟った人だけで、完全に悪だけだと周りからあまりに嫌われて相手にされないので、私たちが付き合うほとんどの人は、善をしたり悪をしたり、心でも善になったり悪になったり、しょっちゅう変わると思ったほうが良いでしょう。
何かの悪行為に対して世間で罰が与えられたりすると、例えば捕まって刑務所に行ったりすると、その分、その悪業は減ったとは考えられます。捕まらずに一生逃げおおせたら、その悪業が減っていないので、来世に持ち越しになる、と仏教では考えています。
他人からの悪行為を私が受けることもあり、私が他者に悪行為をすることもあり、そのつど、適切に行動すべきと思います。世間的な罰則の面は業の一部と見ればよいでしょうか。
質問者からのお礼
ありがとうございます