いないかもしれない霊能者を探してみたい
私もそうなのですが
hasunohaでは「亡くなった人に会いたい」と言う相談も多数あるようです。
たとえば
忠臣蔵
(ここでは史実はどうかより 歌舞伎に基づいた話をします)
浅野内匠頭が吉良上野介に苛められてた結果、松の廊下で斬りかかって
内匠頭は切腹、浅野家取り潰し、上野介はお咎めなし
そして城代家老、大石内蔵助を始めとする遺臣(赤穂義士)たちが吉良上野介を討ち果たし
泉岳寺の墓前に吉良の首を添えて感泣する。江戸の町民は拍手喝采。そして最後は義士達も切腹。
切腹の時に 大石内蔵助は言います「一足先に殿のもとに参る。あちらで皆を待っておるぞ」
これは、霊魂が存在し、内匠頭の霊魂の思いがどこにあるか明確になってこそ成立する話で
この前提なければ虚しい話になります。
「ばかみたい。喜んでくれる人もいないのに妄想に凝り固まったあげくに多くのもの(命も家族も)を喪っただけじゃねーか」
ともなりかねません。
松の廊下の事件直後も紆余曲折があり
赤穂城では
すぐ上野介を討てと言う者、弟を擁立した浅野家再興の活動を主張する者、幕府に抗議して城で皆で切腹を主張する者、籠城抗戦を主張する者、おとなしく開城して新たな生活を考える者
いろいろ割れました
割れた原因は内匠頭の霊魂と対話できる人が誰もいなかったから。
もし本物の霊能者が存在して 内匠頭の霊と対話できていれば赤穂藩家臣で新たな対立や憎しみを生むことはなかったはず。
たとえば
今でこそフグ料理はある程度確立されており調理には特別な免許が必要で飲食店で死亡事故は聞きませんが
昔の試行錯誤をしていた時代に「おいしいフグ料理を作るぞ」と意欲を燃やして毒にあたって死んだ料理人がいて遺言も何も残さなかったとします。
もしあの世や霊魂があるならばその人は子や弟子に遺志を継いでほしいと思っているのか、危ないからやめろと思っているのか?
親 又は師匠の意向に沿いたいと思っているならば、霊魂やあの世の存在を知りたいと思うことは当然だと思います。
人によって動機はいろいろだと思います
能力もないのに金をだまし取るニセ霊能者・詐欺師だらけなのも分かっているつもりです。
そのため なかなか行動に移せないのですが
自分の生き方を探すために
慎重に、本物の霊能者を探してみたいというのはおかしな発想でしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
すべて心によって作り出される
はじめまして。あなたが忠臣蔵を例にお話しされたことは心情的にはよく判ります。
しかし、お釈迦さまは「無記」と言って死後の世界や霊魂について一切なにもおっしゃっていません。何故だと思いますか。それは仏教は決してオカルト的な不確定なものに対して想像力で結論を出すべきではないというのがお釈迦さまのお心ではないかと私は思います。
また、お釈迦さまは「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」とおっしゃっています。
大石内蔵助が言った言葉の本心は自身の義を果たした事への満足の言葉であり、あの世で殿が待っているかどうかはどうでも良いのです。自身の義を果たしたことが大事なのです。
仮にあなたがもしも本物の霊能者と会う事が出来て、そして霊能者から教えてもらった話が、あなたの過去世においてあなたが殺人を犯していて現世ではその償いのために生まれて来たので決してこの世では幸せにはなれないと言われたらあなたはどう生きていけるのでしょうか。
何を申し上げたいかと言いますと、不確定要素に心が乱されることは意味がないと言うことです。合掌
自分の生き方を自らの経験で悟り、気づくのではなく、霊能者に探してほしい。
ということでしょうか。
仏教に帰依している僧侶に、霊能者に帰依したいけどいい人いない??
という意図になるなら、少し違う気がします。
その上で、僧侶でも、霊能者でも、セラピストでも、師に忠実な人が本物なのか、結果にコミットするのが本物なのか、成果はどうであれ長い間廃業せず生き残り続けているのが本物なのか、何を本物と定義しましょう。。
人に頼ろうとすると、選べない。
人に頼ろうとするから迷う。
私は内匠頭さんのお話、霊能者がいなかったからこそ、後世の人の心を打つ逸話となったと思ってます。
ウチの開祖は霊力を求められ都で祈祷したといわれています。
その1300年後の末代がこんな事いうのも変ですが、本物であろうか偽物であろうか、後悔しない。その信の気持ちを大切にした方が前向きな気持ちを保ちやすいと思います。
質問者からのお礼
ご回答くださり、ありがとうございます
いろいろ考えてみたいと思います。