言葉だけが存在して、実は実態のないもの。
私は、人間社会の中で飛び交っている言葉の多中には、人間の感覚の中にだけ存在していて、その言葉が示すような現象や物質的に存在する状態を持たない物があると思っています。
お化け、勝ち負け、善悪といった事も、
私にとっては言葉だけが有り、その言葉が示すような現象すら実存し無いのですが。
コレはおそらく、社会の中に立ち位置を見出だせなかった私にとって、上記したような解釈がなければ、今の自分自身を保っていられないという様な、いわば、劣等感の埋め合わせだとも思います。
人間の行動を突き詰めていくと、承認欲求を満たすために勝ち負けを作り出し、自分の生み出した結果を意義あるものに位置づける為に、
自分自身の過去を、その考えや結果を正義や善意で舗装して、社会全体にヒエラルキーを形成するための圧力、モラル、善意、マナー等が感覚的に人の意識内に生まれてゆくという仕組みが有るように思います。
「私が考えるから貴方は働きなさい」
要するにこれ以外の事は何も言わないのが全ての人間だと思います。
私はこの人間の状態に「酔い」という名前をつけ読んでいます。
仏教の教えの中に「シラフ」の状態、あるいはそのような錯覚は有りますか?
宜しくお願いします。 私には10歳年上の兄がおり、精神面を患っているのか、私が物心ついたときには引き篭もりのような状態でした。 兄の性格は優しい人ですが、母からは受け入れてもらえず、心の成長が10歳位で止まっているように見えます。 今は58歳になりますがまだ子供のようです。 私の家族は父母兄私の4人で、 私が24歳の時に父の収入が無くなり、 38歳までの間私の収入だけで家族4人が暮らしていました。 正直、疎ましく思っていましたし。 給料日が来るたびに死にたくなりました。 38で生活保護を受けさせて頂ける様になりましたが、私が43歳のときに父が死に、それ迄は色々な出費が有りました。 その間ずっとお金が無かった為、私はひたすら週末眠り続け外の情報に触れないように過ごしてきました。 現在48歳。 焦燥感と絶望感を散々味わい、出家の道を考えています。
寂しさに苦しまされます。
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「私」にも実体はない
ご相談拝読しました。
おっしゃるとおり私たち人間は実際には実体(固有であり不変な自性をもつもの)としてないものを言葉で定義し、共有して社会を成り立たせている面があります。
「お金」とか「国」だってそうでしょう。そんなもの人間以外の動物にとっては関係ありませんが、人間は皆でその概念を共有しています。そしてその無いはずのものから実際に大きく影響を受けています。
私たちは言葉で世界(私にとっての物語)を作って、その世界に迷いこんでいくのです(惑)。その迷いの中であらゆる行為(業)を営みますが、それは真に私を救うものではなく、やがては消滅していきます(苦)。その極まりが死でしょう。
仏教はこの惑業苦から抜け出すことを目指す教えです。人間は対象を概念化(戯論)し言語で分別して考えそこに執着し、善悪等の価値付けをしていきます。
しかし実は誰もそこから一歩外には出ていないのです。なぜならば「私」というのも私の思う概念に過ぎないからです。「私」と「私以外のもの」という物語が成立しているならばやはり私も惑の中でもがいているのです。
仏教では瞑想・禅定により智慧を開発し、智慧によってありのままに物事を見て物語から解放されることを解脱といいます。
しかしその瞑想・禅定ができない人であっても、言葉の世界において救いを証する道(浄土門では南無阿弥陀仏という言葉を大切にします)も仏教にはあります。
あなたにもきっと合う道があるでしょう。まずは龍樹の思想について学ぶとご興味にフィットするのではないでしょうか。