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言葉だけが存在して、実は実態のないもの。

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私は、人間社会の中で飛び交っている言葉の多中には、人間の感覚の中にだけ存在していて、その言葉が示すような現象や物質的に存在する状態を持たない物があると思っています。
お化け、勝ち負け、善悪といった事も、
私にとっては言葉だけが有り、その言葉が示すような現象すら実存し無いのですが。
コレはおそらく、社会の中に立ち位置を見出だせなかった私にとって、上記したような解釈がなければ、今の自分自身を保っていられないという様な、いわば、劣等感の埋め合わせだとも思います。

人間の行動を突き詰めていくと、承認欲求を満たすために勝ち負けを作り出し、自分の生み出した結果を意義あるものに位置づける為に、
自分自身の過去を、その考えや結果を正義や善意で舗装して、社会全体にヒエラルキーを形成するための圧力、モラル、善意、マナー等が感覚的に人の意識内に生まれてゆくという仕組みが有るように思います。
「私が考えるから貴方は働きなさい」
要するにこれ以外の事は何も言わないのが全ての人間だと思います。
私はこの人間の状態に「酔い」という名前をつけ読んでいます。

仏教の教えの中に「シラフ」の状態、あるいはそのような錯覚は有りますか?

2023年3月5日 18:37

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「私」にも実体はない

ご相談拝読しました。

おっしゃるとおり私たち人間は実際には実体(固有であり不変な自性をもつもの)としてないものを言葉で定義し、共有して社会を成り立たせている面があります。

「お金」とか「国」だってそうでしょう。そんなもの人間以外の動物にとっては関係ありませんが、人間は皆でその概念を共有しています。そしてその無いはずのものから実際に大きく影響を受けています。

私たちは言葉で世界(私にとっての物語)を作って、その世界に迷いこんでいくのです(惑)。その迷いの中であらゆる行為(業)を営みますが、それは真に私を救うものではなく、やがては消滅していきます(苦)。その極まりが死でしょう。

仏教はこの惑業苦から抜け出すことを目指す教えです。人間は対象を概念化(戯論)し言語で分別して考えそこに執着し、善悪等の価値付けをしていきます。

しかし実は誰もそこから一歩外には出ていないのです。なぜならば「私」というのも私の思う概念に過ぎないからです。「私」と「私以外のもの」という物語が成立しているならばやはり私も惑の中でもがいているのです。

仏教では瞑想・禅定により智慧を開発し、智慧によってありのままに物事を見て物語から解放されることを解脱といいます。

しかしその瞑想・禅定ができない人であっても、言葉の世界において救いを証する道(浄土門では南無阿弥陀仏という言葉を大切にします)も仏教にはあります。

あなたにもきっと合う道があるでしょう。まずは龍樹の思想について学ぶとご興味にフィットするのではないでしょうか。

2023年3月6日 5:25
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有り難し
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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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