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人に嫌われるのが怖い

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 高校1年の時、ある女子のグループにクスクス笑われたり悪口を言われたりするのが辛く、休みがちになりました。先生に相談すると、友人と席を近くしてくれたりしました。
 2年になっても治らず、先生は同じように対応してくれましたが、クラスの大半から悪口を言われるようになり、不登校になって、結局転校しました。
 外で元同じ学校の人に会うと、クスクス笑われたり、人のせいにした、と言われます。
 なぜそんなことを言われなければならないんだろう、と考えました。友人と席を近くしてもらっていた私の自分勝手さから、余計に悪口を言われたのだと思います。
 転校先でも、「あの人一個上らしいよ。友達が言ってた」などと言われたことがあります。
 辛いことから逃げたツケでしょうか。周りの人からは、「逃げた」、「自業自得」と思われているのだと思います。
 進学先でもそのように言われるかもしれない、と不安で堪りません。
 どうしてあの時我慢できなかったのだろう、自分一人で解決できなかったのだろう、どうすれば良かったんだろうと今更考えます。
 噂され、今自分を好きでいてくれる友人や知り合いにも、嫌われてしまうのではないかと怖くなります。何か言われる度、おかしいのは自分の方だと感じます。新しい人間関係を築く自信もありません。
 人に嫌われているかも、とどうしようもなく不安になります。悪口や嘲笑に耐えられるようになりたいです。自分を変えたいです。

2023年3月12日 10:12

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

縁の浅き人に嫌われてても何かが失われるわけではない

こんにちは😎
いやなことを言ってマウントをとってくる人の心理を知る。
実は彼らは自分一人では弱くて何もできない。だから群れをなして人を見下しバカにしてくる。そういう下劣な行為をすることで勝った・優位に立った気に「なって」いるだけ。実に哀れな輩です。🐒
親や育ち・家庭教育にも問題があり、結果そのような、あのような人間性=自分と誰かに痛々しい救われない人間性をしてしまっているというということでしょう。
わたくしめも仏教業界人からネトウヨ僧侶とか陰口を叩かれているとかで、わざわざ回答者様からご連絡がありました。別にどうでもいいです。人の言うことにはフタも栓もできません。御BOSEさんでも陰口いう輩もおるんですわ。まぁ、言わせておけばいいのです。人類ALL発展途上人。人のやることの真意は本人以外わからないもんです。世間をみわたせば、やれ当事者ではない「第三者が主役ぶってマウントをとっている」魑魅魍魎跳梁跋扈の地獄絵図。いつの時代にもあり、これからも永続していくのです。それが人間界・世相・エゴというものです。
そういう人間心理をよく知れば「ああ、なるほど。大したことない。」と目が覚めはじめて自はが自分らしく生きればよいのだ、と真の自己に気づく。人間性を高める上でお付き合いしてもさほど価値のない野盗に迎合してまでつるむ必要がなくなり人生快適になります。今のあなたはまさに今そういう状態だと心得ればよいのです。
ご紹介が遅れました。当方、ネトウヨではなく人類愛人間愛全方向のパヨサヨウヨホシュDUPESインボB層ALLマンセー丹下と申します。私は中国がウイグルやチベットを弾圧していることや反日教育を受けた近隣国移住民らによる日本人ヘイト反日マウント活動=「行き過ぎた多様性」にSTOPを呼びかける投稿を日々繰り返しておりますが、その為ネトウヨと誤解されております。仏教、仏の救いとは右翼もサヨクも、右も左も前も後ろも上も下も救えるぐらいの大きな網でなければ救いになりませぬ。誰も取り残されることのない社会とかいいつつ、力の強い者に媚びる人が世の中の大半ですが、私は誤解されようとも、私の尊敬する人が全方向を救ってしまう僧なので同じように全方向を救える働きを心がけていきます。立派な人はヤクザもんも救います。障害をもつ人の面倒もみます。いじめっ子も正します。
そういう精神を持ってみて下さい。

2023年3月12日 14:14
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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