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前向き思考の限界

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毎度お世話になっております。三度目の質問、失礼致します。

今回は以前からの質問の地続きとなっているような内容になります。

ここのところ自己と向き合い自分を褒めたり、両親を立てるよう褒めたりすることで調和をはかろうと努力しています。どんな些細なことでもお願い事をしてもらったらありがとうと告げたり、何かをしていたらえらいじゃん、すごいじゃん、と声をかけたりしています。
その成果か、母はここしばらくやらかしが減り、それが自己を守ることにも繋がっています。

しかし、もとより他人、とくに両親から褒められた記憶が薄いせいか、承認欲求がとても強く、自分で自分を認めることで一時は満たされてもすぐに枯渇してしまいます。

自分だってほかから褒められたいのに、というフラストレーションで不満が溜まり前向きにしてみるという目標も度々挫折してしまいます。
もう少し大人になりたいのですが、不器用なこともありなかなかうまく自分を操縦することができません。

どうすれば、自分の中の子どもを暴れさせずに済むでしょうか。いま自分がしている自己分析などでは限界があるため、どうかお知恵をお貸しください。どうぞよろしくお願いします

2023年4月28日 23:55

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嘘にならないように

褒めるという行為は、上の人が下に対して行う行為と言われる側面があります。子供がま親を褒めるというのは、「共感」程度のことでしょう。

そして、前向きになろうとかポジティブにしようとすることには限界があるものです。ポジティブな考えというものは。なろうとしてなるものではなく、結果論であるということです。

素直な今の気持ちを否定することにもなるので疲れてしまうのは当たり前です。
わざわざマイナスのことを口にするのは相手がいるときにはしないほうが良いです。思っているだけなら問題ないですから、共感できそうな時だけ、声にしてあげたらよいですよね。

2023年4月29日 5:45
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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

無理やり褒める事実に上塗りするよりも、事実にノントッピング。

私は以前プラス思考講座などもやっていました。前向き思考、ポジティブシンキング、アファメーション、誉め言葉…、やめました。不自然だと感じたからです。
ネガディブシンキングやマイナス思考、負のリアクションをするよりは、まだよいと思いますが、無理なプラス思考よりはただ黙ってマイナス思考だけをさせないというだけでも心には良い作用が生まれます。事実を直視する。事実を事実のままに。そこに何も加えない。
良く世間でいう、あるがままに、とか♪ありのままに、というのも実はすでに思考・考え・思いの上塗りなのです。
臭いものに別の消臭成分、香料を加えるファブリー〇的なこと、あるいは物事や相手、世界を自分の色に染めるようなスプラトゥーン的なことは、そのままの事実をまず直視していないものなのです。
そのままの事実とは、人間の負のリアクション以前の世界。
ありのままの、あるがままの世界。いや、ありのままとかあるがままとかの形容・名称すらしない世界です。本当のありのままの世界とは、タッチ、突っ込み、塗りたくり、上塗りがありません。
よって、無理やり自分を高めようとか、むりやり前向き思考をしようとすることも一度やめてみることです。やっちゃいけないというワケではありません。

私はまだ本当のありのままの世界、本当の自分の心の子供がお手つきする前の世界を知らないんだなぁという立ち位置・スタートからの心のツッコミをさせない修行がおススメです。
仏道修行、禅の修行とは、「わたし・じぶん・エゴ」を介入させずに、天地自然・大自然・人間の主観なしの公的な目線での心のおさめ、あくしょんです。
たとえば野菜を切るときに、ああ人参、かわいそうに、ばらばらになっちゃって…、なんて思いながら料理するなんていらぬこと。
横断歩道を渡るのに、暴走車が突っ込んでいたらどうしよう…とまよって赤信号になって渡れなくなってしまうようなことは過剰な不安、過剰なお手つき、過剰なツッコミです。
おなじように、内なる相手に対して自分流な思い方でお手つきするというのは事実を曲げてしまう作用が生じるものなのです。内なる世界だからです。本当はそうではないのに「自分流に」思い込んで自分を苦しめてしまう、そんな作用になる。
内なる子供ちゃんも拒絶せず本心として拝む。その本心が本当にほっとするようにものを見る。それが、事実を事実の通りに見ることです。

2023年4月29日 7:50
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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