祖母の死が受け入れられません
同居していた祖母がつい先日亡くなりました。病気は色々とありましたが、最終的には間質性肺炎でした。
亡くなる3日前には高濃度酸素を吸いながらも話せており、2週間程度の入院と聞いて居た為まさか亡くなるとは思っていませんでした。在宅酸素か介護施設に入るのかなと思っていました。
死に目には誰も会えず、4月末に葬儀を終えたばかりです。納棺式の時点で大号泣してしまい、一緒にに逝きたいという気持ちが強くなぜ祖母だったのだろうか、何故自分が生きているのだろうかなどとずっと考えて泣いてばかりいます。
今死ねばもう少しでおばあちゃんに会えるかななどと考えては泣き、昔のことを思い出しては泣いてばかりで眠れていません。葬儀の際、お坊さんがいつかは皆さん会えますからね、と仰っていて今すぐに会いたいから死んだら会える?と本気で思いました。これから1人で長い旅に出ます、と葬儀場の方が仰った時も同様の事を思いました、私が今から逝けば1人じゃないかな、一緒にいれる?と。
遺影を見ては泣き、合掌しながら話しかけては泣き、明け方4時まで泣き通しています。
生きる気力もありません。元から希死念慮は強いのですが更に強くなった気がします。家族は皆葬儀後は泣かずにいますが、私だけが日々泣き通しています。
こんな状況で新しい仕事も決まったのですが全てが不安です。1秒でも早く祖母の所へいきたいです。どうしたら後追いせずにいられるでしょうか
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すぐそばに
ご愁傷のことと思います。
大好きだったおばあちゃんと離れ、もう会えないと感じているのでしょう。
仏道とは生死を明らかにすること。おばあちゃんの体はなくなり、どこかに行ってしまったように感じていられるのでしょう。
しかし、大きな命の働きを感じられるようになる、学びのチャンスをおばあちゃんはあなたに与えてくれたのです。
今はご自身の思いに焦点を当てて生活されているので、苦しくなるのでしょう。
思いの中にはおばあちゃんはいません。おばあちゃんは大きな大きないのちとなってあなたのすぐそばにいつもいるのですよ。
耳を澄ませ心静かにしていると、風の音、鳥の囀り、太陽の温度、草の香り、五感か、様々なものがあなたの体と一体となって存在していることがわかるはずです。
道端で花が咲いていたことに気づくこともあるでしょう。目を開いて、思いよりも、リアルを五感で感じる生活をしてみてください。目、耳、鼻、舌、身体の感覚から感じる全てをいのちの働きだとわかります。
その働きがおばあちゃんであるのです。入院していて会えなかった時よりずっと近くであなたを支えてくれているのです。あの世という想像の世界ではなく、今すぐに会えるのです。会っているのです。
49日、100日、一周忌、3回忌と供養を重ね心が静かになってくると、分かることもあります。そのための修行が供養なのです。生きること、自分と向き合う大切な修行(供養)の機会をおばあちゃんが与えてくれましたよ。