偶然と必然
4年前、私が中学生の時におじいさんが亡くなりました。
亡くなった時はもちろん悲しかったのですが、入院もしていて弱っていることは分かっていたので、私も家族もおじいさんが亡くなることに心の準備は出来ていたと思います。
しかし、お通夜の時にお隣の家の方が亡くなったという話を聞きました。
亡くなったのはその家の一番上の息子さんで、まだ20代で就職したばかりの、私も小さい頃にたくさん遊んでもらった人でした。
お隣のお母さんはすごく悲しんでふさぎこんでしまうほどでした。
私のおばあさんは「おじいちゃんが寂しいから連れてってしまったのかもしれないね」と言っていました。
私は偶然だろうという気持ちがありつつも、近い日にお隣の、しかもとても若い人が亡くなってしまったことに偶然ではない何かがあるように思えて仕方ありません。
おじいさんのお墓参りをする度にお隣のお兄さんのことを思い出してしまい、悲しさや残念な気持ちや申し訳なさなどで少し心が苦しくなります。
もちろん私が責任を感じるようなことはなにもないのですが、お兄さんのお葬式に行った際、たくさんの友人や先生など若者で溢れかえっていたことを思い出すとどうにも言えない気持ちになります。
私はおじいさんと隣のお兄さんの2人の死をどのように受け取ればよいのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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偶然です
若くして亡くなることは悲しい事ですが、それは全くの偶然です。
極楽浄土から見守っているおじいさんとお兄さんの為にも、あなたは元気を出して前向きに、1日1日を大切に生きてくださいね。
気をつけます
お祖父さまとご近所のお兄様の逝去に哀悼の意を表します。
さて、おひとりなくなると、近所の方や、ご家族の方がほどなく亡くなってしまうことがあります。そうすると、「連れて行ってしまった」などという話になったりすることがありますね。
でも、これは、「連れて行かれた(怒)」というより、「一緒だから寂しくないね(安心)」の文脈で使われたり話されたりしていると思います。だからあなたも、申し訳ない気持ちにならないでね。
私も、これからは安易に「連れて行ったのかもしれませんね」などと口にしないように気をつけます。ありがとうございました。
偶然か必然か、ということですが、自分の夫や妻など近い関係の方を亡くし、精神的にがっくりきて、もともと弱かった体が気力的な支えを失い、亡くなってしまうことはあると思いますが、「連れて行く」という事はありえないと考えます。
お祖父様のご供養をきちんと行い、また、亡くなったお兄様のお家に上がることがあったら、「仏壇でお参りさせて下さい」と声をかけ、手を合わせましょう。