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曹洞宗における死後観について

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有り難し有り難し 14

例えば浄土真宗は阿弥陀如来の西方極楽浄土へ往生するという考えですが曹洞宗においては死後どうなると考えられているのでしょうか?

2023年6月15日 14:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

この世はいつでも誰かの死後、誰かの来世。だからこそ報恩行。

別に曹洞宗ではこうだ、というわけではありませんが、死後の世界というとすぐに人は行ったこともないのにどこかに特殊な世界を思い浮かべます。
本来、前世とは一秒前。来世とは一秒後。この世は永遠に今を置いてほかにない。
生者も死者もおおよそ共にこの世を離れたことがありません。
世界に大きな影響を及ぼした人でも今もこの世に作用・影響力として生き続けています。つまり死後の世界も生の世界もともにこの世。
今ここ。この世界こそ、永遠に続いているわれわれの「生」の世界であり、同時に先人がたの「死後の世界」。同時内包。
永遠に走り続けている生死を超えた列車のようなもの。宗派や誰かが言った説ではなくあなたが真実に眼を見開くべきことです。
原始の時代からずっと無常、無我、寂静っぱなしで永遠にあり続けている姿をしているのがこの世、この世界の大真実であり、その最先端モデルこそが今日の今ここ、この時代です。沢山の生命、生物、人間が無数無限に誕生して、共にさまざまな歴史を経てその流れの中で今現在のLIVE中継。あなたも死者もその大きな世界と歴史、エピソード、列車の中の一員なのです。
われわは生きているだけでも先人様たちから多大な「お布施」を受けているのです。ここでいう布施とは、恵、恵まれ、恩恵。施されていること。布施というとお寺や坊さんにおさめるお金のことだと誤解される方も多いでしょうが、そうではありません。生きていれば生きているだけで授かりがある。学びがある。いただくことが無数にある。それも布施なのです。
先人がたが築いて下さったベース、産物、布施の数々があるからこそ、今の時代でも苦労せずに暮らせていたのです。報恩感謝。
こうして瞬時に遠方の人と文書やり取りができるツールがあり、山や海に狩りに行かずとも手に入る食事。先人たちが生み出してくださったアイデアによる様々な技術、製品、教え。そしてあなたもそのバトンタッチをする役割を持つ人です。
では、人は亡くなったらどうなるのか。
あなたにとって大事な方も、そうでない方も亡くなられれば、縁ある方への作用体、影響力、精霊となって生き続け=作用としてあり続け=作用し(生き)続けていくのです。釈尊も影響力として多くの人を救っている。
テロリストや戦犯、独裁者は永遠に恨まれ続けるでしょう。
だからこそ、人はいい加減な生き方をしてはいかんぞ!ということなのです。

2023年6月19日 10:11
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。
なかなか答えが入りませんね。
「死後の世界に実際に行って帰ってきた人はいないので、わからない。それについて考える時間があったら、修行に励みなさい(今を全力で生きなさい)」という考え方があるので、答えようがないのだと思います。
 仏教学者で駒澤大学名誉教授桜井秀雄の著書「曹洞宗回向文講義」の中に、曹洞宗の葬儀に関する解説があります。長いので引用は省略しますが「禅門においてさえ浄土信仰が入りこみ」とあります。もちろん諸説あるかと思いますが、浄土信仰的な考えに依っていると考えていただいて良いのかもしれません。

2023年6月18日 11:12
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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

なるほど浄土信仰的な一面もあるのですね。とても為になりましたありがとうございました。

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