お不動様はなぜ怒っている?回答受付中
いつもお世話になっております。
15年間信仰していて、未だにわからないことがあります。
非常に初歩的な事です。
なぜ不動明王は怒っているのか?
仏教は怒りを悪い感情と捉える→わかる
優しいだけじゃ通じない相手に、不動明王はあえて
怒りをもって接する→?
怒りは罪深い感情であるはずなのに、なぜ明王は
怒っているのでしょうか?
よく、
「我々が迷いの中にいるとき、我々が間違えた方向に
向かいそうなとき、怒りの形相の不動明王が、左手に
持った羂索で我々をからめ取り、引き戻してくれる。
引き戻してくれた後は、右手の剣で迷いを断ち切り、
背中の炎で焼き清めてくれる」
と説明されます。
迷いはなんとなくわかる。でも、悪い事って?
(人を害する気持ちで何かすること?)
(十善戒をやぶること?)
私たちの怒りと不動明王の怒りって、
何が違うの?積年の疑問です。
発達障害持ちつつ、他の 障害者の人が怖い… でもその考えは今や時代遅れ。 若い人たちは優しい。 私も変わらないといけない。 がんばる。私の夫は不動明王
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
上には上がいる。
拝読させていただきました。
説明文でおっしゃるところまではネットでも拾え、正解です。
不動明王は元々インドではあまり人気を博さなかった仏(明王)です。仏像は大半がやさしいお顔立ちをしています。しかし不動明王は憤怒の形相と怖さを憶えることもある仏さんです。
不動明王は弘法大師(空海)が日本へもたらされました。
人間のすべての行為(業)は三業である
①身体(身:シン)
②言葉(口:ク)
③意識(心:イ)
からすべてが顕現され全世界、欲と煩悩でひしめく社会と成り立っています。
「十善戒」では最後に「不邪見」を置きます。これは前の9つを集約したのが不邪見となります。
この邪見は、欲を制御できない欲望です。仏教はいわばマインドコントロールできるための仕組みを示唆している教えでもあります。
弘法大師(空海)はこのように説きます。
「邪見を発起すべからず、善根を断ずるがゆえに」
邪見はすべて感情をコントロールできない貪瞋痴(むさぼり、いかり、おろか)なる無知(無明:迷い)から生じています。
迷わないために欲を制御するために不動明王が人々の欲と煩悩を懲らしめる役割を担当していると把捉してください。
(人を害する気持ちで何かすること?)
(十善戒をやぶること?)
↑
こちらすべても包含します。
基本仏教では、欲を制御し、小欲知足を目指すイメージがあるものです。無論正解です。しかしそれは自己欲(自利)を制御するということであり、欲は欲でも大きな欲を持ちなさいとするのが、真言宗の特質であり、他宗派も類似します。
それは日本に存在する仏教は釈迦当時の小乗(上座部)でなく、大乗仏教である利他であるからです。他を救世するための欲は大いに持ちなさいとするのが日本仏教です。
その収斂され、帰着するところの日本仏教の心(意識)は、「慈悲」になります。
慈悲とは現代語でいうならば、"抜苦与楽"となり、「相手の苦しみを仏の真理(法)をもって取り除き、無明(煩悶)に光を照らし、照破させていくことになります。
そのために「不動明王」は多くの方々に1200年前より日本では根強く人気を博しています。
参考までに。
合掌
悪いことを注意する時に、優しい顔をしていては言うことを聞いてもらえないかもしれませんからね。恐い顔をしているけど、怒っているわけではなく、心の中は慈悲で満ちているものと思います。
質問者からのお礼
【法源 先生】
お返事いただきありがとう
ございます。
要するに、貪瞋痴からくる
悪い感情を制御せよという
ことですね。
【光禪 先生】
お礼遅くなり申し訳ありません。
確かに、悪いことする人には
優しく接してもダメな時
ありますよね。
それとただブチギレるのの
違いは、優しさが心の
中にあるかないかつまり
相手を思う気持ちがあるか
ないかってことですね。
私には現世で不動明王の
まねは無理ですね。
騒いでる知的障害者とかに
注意する時、完全に
「私が注意することで
こいつらとの違いを
周りに見せつけたい」
とか
「キモいから黙らせたい」
とかが根底にあるから