hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

子供にイライラする

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

私の通ってるところがあるんですけど、そこに十代の生意気な子がきていて、気に食わなくて悩んでいます。

その子は挨拶もしないし、職員の人たちが明るく声をかけても無視したり冷たくしたりします。

私の大好きな職員さんもいるのに、いつも冷たくされているのを見るのが辛いというか腹が立ちます。(職員たちは気にしてないようですが)

その人以外にも、挨拶をしない人というのにも一々傷ついてしまいます。

どうしたらいいでしょうか?

2023年6月23日 17:15

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の事前設定に腹を立てていると観ずる

現代のお子さんがたは多種多様で自分たちの世代の教育スタイルとは異なる自由な環境で育っている人も多いでしょう。
厳粛な家庭や教育環境で育っている人たちからするとビックリするような態度の人たちも多いです。
ウチのお寺に遊びにくる子たちも挨拶すらしません。しませんので、挨拶を習慣づけるように観じ良く挨拶を働きかけますが♡
それでも人見知りタイプの子や、内向的な子供は自分の優先したいことが先にあるので、そちらを保持するような気配があります。
親御さんとの関係の中で本人が「たまたま」そういう心理状態に追い込まれてしまっているケースもあるでしょうし、そういう関係が継続していると本人もドライでや探れ心理に追い込まれてしまっているのかもしれません。ちゃんとした子は家庭でちゃんとしたいい親子関係が築かれていて問題はないからです。
ですが、人は生まれを選べない。生まれを選べないのです。親ガチャ。親を選べない。家庭を選べない。
あなたも自分の家庭をご自分の意思で選んで生まれてきたわけではありません。
あなたもそのお子さんと同じ家庭に生まれてきたならばおそらくそうなってしまったのではないか?という相手目線に立ってあげることも大事だと思います。
ですが、もっと大事なことは人間は誰でもみんな自分ファースト。その子も自分ファースト。実はあなたも自分ファーストなのだと深い心で見極め、知ることです。
何がどう自分ファーストなのか。自分の事前設定が優先されているのです。
お子さんはこうあるべきだろう、挨拶して当然だろうという意識がないわけでもないはずでしょう。
私にもお子さんに対してはこうあってほしいなぁという気持ちがありますが、今のお子さんたちは誰もがみんなそういう家庭教育が行き届いた家庭で育っているわけではありません。
だからこそ、嫌ったり、悪く言ってもその子が立派になるわけでもありません。
あなたもこういってもらえたら素直に言うことを聴けるというような表現があると思います。同じ目線であなたもお子さんに教えてあげてみてください。
それができればあなたもうれしい。
そのお子さんも誰からも嫌われることも無くなるでしょう。
そういう働きが生まれればそこで素晴らしい力、功徳、エネルギー、善玉菌作用が生まれてそのほかの人たちをも助けてあげる力になるでしょう。菩薩の精神でサポート、助けてあげてください。

2023年6月24日 9:28
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ