モヤモヤします
私にはとても大切な友達がいます。
私が精神的にどん底にいた時に、彼女のおかげで救われて人生が変わりました。(以前伝えたので彼女もその事を知っています。)今でも感謝してもしきれません。
ですが、最近彼女に対してモヤモヤしてしまう自分がいます。
理由は、時々彼女がSNSで自分のことを卑下するような投稿(◯んじゃおうかな、自分なんて〜等)をすることです。
私は彼女のことが大切なので、そんなこと言わないで、私は◯◯ちゃんのこと大好きだよ、大切だよ、等思ったことを伝えていますがそれでも無くなりません。
自分の気持ちを伝えることが一方的な自己満足かもしれない事は自覚しています。SNSなので自由に投稿してもいいことも理解しています。そうする事で彼女の気持ちが楽になるのならしょうがない気もします。
ですが、自分のことを大切に思っている人が見られる場所でそのような投稿をする事に対して理解が出来ません。
そのような投稿を見るたびに、私の気持ちは伝わってないんだな、相談相手として私は不足なんだな、大切なのに何の役にも立たないんだな、とだんだん悲しくなってきました。最近ではこちらからは何も言っていません。SNSも極力見ないようにしています。
今でもとても大切な存在な事に変わりはありませんが、だんだん心が疲れてしまいました。
私はどうすれば良いでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心に関する問題はすぐに結果が出ないこともたくさんあります
自分がコントロールできるのは自分の心だけです。他人の心は親兄弟、配偶者、子供であっても結局はコントロールすることはできません。相手が困っていたり、客観的に見て良くないと思われる方向に進んでいるとしても、それに対して助言したり励ますことはできても、その結果まで自分の思い通りにすることはできません。
「仏垂般涅槃略説教戒経」の中でお釈迦様は
「我は良医の病を知って薬を説くがごとし。服すと服せざるとは医の咎にあらず。また善く導く者の人を善道に導くがごとし。これを聞いて行かざるは導く者の過にあらず」
(私が説法をするのは、良い医師が病気を診断して薬を処方するようなものだ。良い薬があっても、それを飲むか飲まないかは患者しだいで、医者の責任のおよぶ範囲ではない。また、優れたアドバイザーが適切な方法をレクチャーするようなものだ。それを聞いて実行するかどうかは聞いた者しだいで、アドバイザーの責任のおよぶ範囲ではない)
と説かれています。
私たちは学校や会社などで常に結果を出すことを求められることに慣れすぎているので、結果が出ないことが即、悪いこと、失敗であるかのように錯覚しがちです。
佛教では「原因が結果をもたらす」という因果律を取ります。相手の心が良い方向に進むという「果」には必ず、助言や励ましという「因」が必要ですが、それが成就するには、もう一つ「縁」がはたらく必要があります。「縁」は「因」をたすけて「果」に向かわせるもので、時間的、空間的、関わる人の感情的な要素などがさまざまに作用します。「因」が「縁」にしたがって「果」を生じますが、私たちはこの流れを全てコントロールすることはできないのです。しかしなお大切なのは、すぐに「果」が得られないからといって「因」が全く無意味なものではないということです。
「因」「縁」「果」は必ずセットです。今すぐに思うようにならないとしても、助言や励ましが相手にとって良い「因」となることを期待して待たれるのが良いと思います。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます!
確かに、友人に対して結果を求めすぎていたかもしれません。
これからは、こちらも気負いすぎず都度自分に出来ることを気長にしていこうと思います。