生きている意味が見出せません
前回も悩みを聞いてもらった者です。
あれから数ヶ月が経ち、当時の回答を教訓に生きていますが、状況は益々悪化して、今はただ絶望とこの世に生きる意味が見出せません。
魂はこの世での修行との事で、今の状況も見方を変え深く考えるとの事ですが、他人からの要求は果てる事も休む間も与えず次々と科され、私自身の行いたい事は微塵も、何一つできないままに毎日が過ぎていきます。
夜は寝れても悪夢しか見れず、身も心ももう限界です。
職場も家族も理解を得られず、通院する費用も賄えません。
今までずっと自分を数に入れず、他者を優先して幸せを祈り、叶える事をし、他者の嫌がる事を進んで行い、皆が笑って休んでいる時も身を粉にして来ました。
51年、悪い事には手を出さず、どんなに苦しくても、神仏の教えを守ってきましたが、もう身も心も精神も限界です。
何一つ報われることなく、このまま他者の幸せをずっと見てるだけで死ぬまで生きて行くことに疲れました。
今まで2度の自殺未遂をしましたが、その都度生きながらえてしまいましたが、今度こそ人生を終えたいです。
もう生きる意味も、価値も考えられません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いい加減に生きること
前回の質問にも目を通しました。あなたはとても真面目でものごとを厳格に捉えて生きていらっしゃると思います。仏教では「忘己利他」と言う考え方と「自利利他」と言う考えがあります。あなたは自己犠牲をしてまで他者を優先されるとお書きです。これを「忘己利他」と言います。
私は浄土真宗の僧侶です。浄土真宗では「自利利他」と教えます。まずは自分を利してそれから他を利すると言う考え方です。何故なら自己犠牲は長く続けるのはとても大変で困難だからです。あなたのご相談を読んでいるとあなたばどうも自分を犠牲にても他を利する行動を取っておられるようです。それでは長くは続かないですよ、疲れてしまいます。年齢的にもご自分のライフスタイルを考えてみてはいかがでしょうか。
釈尊の言葉に「犀の角のようにただ独り歩め」と言うのがあります。私たちの多くの悩みは人間関係から生じる訳ですから、ある程度まわりと距離を置いて独りになって見ることも必要であると言う意味です。
そして、「生きる意味や価値」など考えなくて良いのです。何故なら人間は生きているだけで尊いのです。あなたの命は存在しているだけで尊いのです。
ざっくり、あなたのご相談に答えるならばあなたの真面目さを少し捨てて「いい加減」に生きてみましょう。いい加減というのは出鱈目と言う意味ではありません。「加減」を見極めて生きるということです。カラダがしんどくなる前に目の前のことを放り投げて良いのです。そして、深呼吸をしてください。ゆっくり進みましょうよ^_^
追記、返信を読ませていただきました。釈尊は「生きていること」が尊いとおっしゃいました。ここでは往復のお話しができかねますので、お気持ちが辛くて仕方ない時は、
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こちらで無料の手紙相談を行なっています。お便りをお待ちしております。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。
厳格な父の元、ただひたすらに他者に支え、両親と祖先、周囲の存在を最優先にし、「自分はそのおかげで生かされている」と刷り込まれて生きて来ました。
他者を信用して借金を抱えることになった時もあっさりと「己を恥じろ、何故人を信用する?考える事も出来ないのか。」と罵られ、私の成功は「俺の子供なら出来て当然。だが、この程度しか出来ないのか?満足か?何故もっと上を目指そうとしない?所詮、この程度か」と言われ続けて来ました。
そのせいか、褒められたり、表彰や記念品を受け取る様なことがあって未だに喜びは全く湧かず、無価値なことに呼ばれ、晒し者にされているとしか受け入れられません。
適当に生きる事
今の私に出来るか分かりません。
心の持ち様を変えることは可能なのでしょうが、今の私の状況と心境では、死んだ方がどれ程楽かという考えに逃げたくなります。
死がよぎる今は直ぐに行うのも難しいですが、せっかくのお言葉と御指導ですので、僅かづつでも行っていける様にしてみます。
重ね重ねの自己放棄の弱音に御指導を頂きありがとうございます。