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欲求と欲望(煩悩)、自我について

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煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。
生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。
例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。
欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。

また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。
そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。
欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。
併せてご教授いただけますと幸甚です。
よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我がためという我欲やドス黒いエゴのためになそうとしない

欲というものがわるいのではなく、その使い方を間違えば煩わしい、悩ましい、煩悩になるということです。
学びたい、知りたい。
仏教を勉強し人格を向上させたいということであれば別に害悪はありません。
ストーカー、パパラッチ、ハッカー、盗聴盗撮のように、個人の情報を知りたい、盗み知りたい、となれば害悪・犯罪です。ハサミも包丁も用い方が大事。
修行したいと言っても、その後、カルト教団の教祖様やら、金稼ぎ、票稼ぎ、思想統一、意地の悪い性悪な指導者になったら何のための修行だかわかりません。
医療だってお金メインになればおかしなワクチンビジネス営利優先な医療に何の罪悪感も生まれなくなる。
動機はなんなのか。何のための修行なのか。それをやってその後、自分がどうあるべきか。どうなるべきか。その問いが必要でしょう。菩提心なき学問、菩提心なき仏道修行はズルガシコイ悪魔を生む。宗教心のない葬祭ビジネス・供養ビジネスのようなもの。人間性の追求、向上のない利益のみの追求は某国のように人の命もなんとも思わないようになるし、そこから材料を仕入れることに何の疑問も持たない某企業のようになり土日にその店に並ぶことに何の疑問も持たないような人が増えてしまう。
禅も「俺が・私が・自分が」という自分可愛がりのエゴいエゴでやれば禅にはならない。痩せるために、キレイになるためにヨガやホットヨガをする世間なら同機は何でもいいですが、自己実現欲求のためにやるものは結局、いくらやってもお下品ちゃんになってしまう。もしその自己実現欲求もそのクオリティの究極の高みを目指せば、オレの為アタシの為という小さな自己実現欲求ではなくなるでしょう。
欲求、欲望もエネルギー。善良な欲であれば自他・世間がより良くなる力になる。
エゴい欲望を優先すれば、接待で自分の会社に仕事を…というような、別の方向性になる。ものを見ている、聞いている、処する、ながめるという純粋行為にエゴは元々ありません。ただ、そのように「行われている」というだけです。
そこにわが身可愛がりの自己愛エゴが持ち込まれるようになると本来のそのものの良さが失われる。
だからこそ菩提心が大事というのです。
オリンピックだってウイグル人がひどい目に遭っているのに開催すれば人命軽視で血塗られた競技場でスポーツ。菩提心、宗教心とはそういう人間性・人の心を優先する姿勢です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「まだ背負ってたのか。おれはさっき下ろしてきたよ。」

煩悩、欲求が悪い、ということはないものと私は受け止めております。

むかしふたりの修行僧が、大雨で増水した川に来た際、
そこにわかい女性が立往生して困っておりました。
僧のひとりは、女性に目もくれず、ひとりで川を渡りますが、
もうひとりは困っていた女性をおんぶして、むこう岸まで
わたりました。
女性はふたりに御礼をいい、僧たちは立ち去ります。
しばらくして、ひとりで渡った方の僧が耐えきれず、もう一人に言います。
「修行中の身であるものが、女人をおんぶするなんて、破廉恥だ」
すると、言われた方の僧が言います。
「なんだおまえさん、まだ女人をしょっていたのか。
おれはさっき下ろしてきたよ。」といってカラカラ笑いました。

というお話があります。とても面白いなあと感じた事を思い出します。

煩悩・欲求の問題は、煩悩・欲求を「引きずる」ことと存じます。
いつまでもその煩悩にこだわり、とどめ、ひきずる。

欲求は自然なるもの。しかし、それを留めるのは、
わたしの都合であり、そのわたしの都合を仏教では「断つべき」と
するものだと理解します。

煩悩がわくことを恐れず、しかし引きずらない。それが
よい「お付き合い方」になるのではないでしょうか。

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欲と意欲はちょっと違う

欲というか貪・むさぼりはラーガで「汚れ」という意味なので、いわゆる欲です。良くないものです。
 意欲チャンダというものが別にあります。それは「やる気」です。やる気自体は良いとも悪いとも言えません。悪いことにやる気があるのは困りますが、良いことにやる気があるのは良いことです。
 悟りに向けて、まずはやる気を出して、努力して、しっかり修行しなければなりません。そのやる気は、良いやる気です。
 自我も、悟るまではあります。自分が、やる気を出して悟るのです。悟ったら、自我もなくなります。
 これが答えの一つになるかもしれません。
 悟ったら、悟るためのやる気もなくなります。無気力ではなく、あとは、他の生命のためにだけ残りの人生を使ってあげるのです。やる気なく、無気力でもなく、淡々と、ただ、やってあげます。

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おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

質問者からのお礼

「菩提心」を心に置いておきます。
ありがとうございました。

煩悩・欲求の問題は、煩悩・欲求を「引きずる」ことにある。
とても腑に落ちました。
ありがとうございました。

>淡々と、ただ、やってあげます。

ちょっとびっくりしました。最終的にはこうありたいです。
そのためにもお金と時間から自由になるべく経済活動に従事したいと思います。

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