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身内にきつい言い方になってしまいます

回答数回答 1
有り難し有り難し 27

初めて投稿します。
題名の通り身内(母・叔母)に怒ったような言い方をしてしまいます。
(イライラしているときなんかは,もっときついです)

どうしても,きつい言い方なってしまう原因は…
①母の顔で眉間に皺をよせて,私以上のきつい言い方です。(元から眉間に皺はよっています)

②叔母さんは,小さい頃から一緒なので,よく母と叔母のWで怒られたりしていました。
自分の娘には,全くと言っていいほど怒っていません。
自分の娘を庇うことばかりです。
よく,一言余計な事を言われます。

③仕事で叔母さんと衝突して,母に言っても,「年だから仕方がない」「もういいわぁ(聞きたくない)」と言われてしまいます。

④自分に余裕がない。すぐ怒ってしまいます。
(恋人もできない,叔母の娘に嫉妬,兄は自分の家庭の事しか考えてない。耳が少し聴こえにくく,右足が悪い。自分の性格にイライラ)

友達にも相談に乗ってもらい,しばらくは良かったのですが,また戻ってしまいます。
友達の言葉にはすんなりと受け入れれるのですが,母達の言葉にはすんなりと受け入れれないです。

ずっと前から治したくて仕方がありません。
何か良い方法はないでしょうか。
長文ですみません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛知県だからです(笑)

それは一言多い愛知県民だからです。性格キッツいんす。
べらんめぇ、しょうがないっス。(嘘)
失礼しました、愛知県民のみなさま。嘘です。ウソですってば、嘘。5割だけ。(5割ホントかい)
あ、本当に冗談です。話半分で聴いてください。
※筆者は愛知県民をリスペクトしており、愛知県民をDISるものではありません。
実はウチの祖父が愛知出身です。それはもう言葉が乱暴だったそうで。それ譲りか父も言葉が乱暴でして、それ譲りでこの私も乱暴でして。テメコンニャロ。べらんめぇ。ハイ、だから愛知県だからです。(笑)
実際愛知県は関係ないのですが、性格、態度、表情は親ゆずりです。
三代前、四代前から始まっているのです。
だから、遺伝子的にも後天的にも影響を受けて、今、そういう性格なのです。
でも人のせいにしていちゃいけませんヨ?
あなたはあなたで人を責めず自分の負の連鎖を断ち切れる。それが仏教パワー「SYUKKE」です。
あなたの脳内に「SYUKKE(出家」アプリ」を無料インストールしておきます。
今からあなたは「アタシは母とも叔母とも、誰とも別存在」であるというマントラを108回念じてください。
出家といっても、僧侶になる必要はありません。
自分と母親とは生命体的にも、育った畑も別存在であることを悟り、適切な距離感を持てばいいのです。家の中で、家の人たちと精神的に距離の近い所で過ごしているから、ワタクシする気持ち(自分中心性)が生じてきてしまうのです。それを断ち切ることが、あなたの今日からの課題です。
車の車間距離を上手にとるように、母親とのナイス車間距離をたもってみてください。
あなたは、精神的に自立独立単立してインデペンデンス姉さまになれます。
そうすることであなたは愛知県民でありながらも、オフィシャルな態度で誰とでも接することができるようにあるでしょう。※筆者は愛知県民をリスペクトしており、愛知県民をDISるものではありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

相談に乗っていただきありがとうございます。
最初の文章で思わず笑ってしまいました。
私自身、名古屋弁がひどいのでさらにひどくなります(笑)
可愛らしい名古屋弁でお話ししたいです(笑)

はい、人のせいにはしたくはありません。
108回ですね、今日から寝る前か朝起きた時に念じたいと思います。
適度な距離感を掴めれば、精神的にも強くなれますね。
精神的にも幼稚だなって考えていたので、そのような言葉を頂けて嬉しいです。
ありがとうごさいます。
愛知県民として、可愛らしい方言(柔らかく言うように話す)と精神的自立した女性になりたいと思います。

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