障害者ですが
今までに色々な事がありましたがやはり自分は自分が好きでした。相談というより私の体験談です。私は三年前当時自分が死ぬほど嫌いでした。自殺したいなと思うようになりました。だから神社にお参りして変わりたいとねがいました。するとその日の夜に夢で神様らしき人と出会い笑顔を見せてくれました。そして起きたらアイデンティティが崩壊したみたいな自分が自分ではないみたいな事になりました。特に血や不吉なものが駄目になったり趣味が無くなったりしました。それが7日間続き、その事をおばあちゃんに相談したら、おばあちゃんは優しく接してくれました。そして最後に貴方は恵まれているね。と言われたときにはっとしました。そうだ僕は何て恵まれているんだろうと家族もいておばあちゃんもいる何故そんな簡単な事に気づかなかったのだろう。その瞬間私の見てる全てのものが愛おしく思えるようになりました。何故気づかなかったのだろう自分が障害者と悲観して周りを見てこなかった。縋りつづけてた日々だった。おばあちゃんお母さんがいるから私は産まれたんだ、父さんが働いてるから裕福なんだ。自分のことばかり考えて周りが見えて無かったんです。それから不思議なことに自分以外の声が聞こえてくるようになりました。それはお札や仏壇や墓の前にたち心の声で語りかけたら、返ってきたんです声が。皆幻聴だと言われたけど私は通力だと思います。どうかお話聞かせてください。
私は自分の醜さを知ってます。かつて友達の悪口陰口を何回もしましたし。イジメも少しだけ加担したかもしれません。でもそれも私なんです。どうしようもなく愚かで他人に縋ってる。それが私です。私は声から聞きました。皆そうなんだよと。貴方だけではない皆んなだよ。と
その瞬間に気づきました人の醜さそれらは自分が後悔した分だけ自分に返ってくる心の弱さや自分が自分自身を信じ切れない欠点であるとゆうことを。因みにこれは私が思ってる極論なのでありのままに受け取らないでくださいね笑
だからこそ声に励まされたからいいます。私は自分が死ぬほど嫌いだ。でも同時に好きなのだと。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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有り難し。
質問に「有り難し」はつかないのでしょうか。
『私は自分が死ぬほど嫌いだ。でも同時に好きなのだと。』
私達は、生きるということを
本当はそこから始めないといけないのでしょうね。
南無釈迦牟尼仏 合掌
でも、障害者は差別を受けている
あなたの気持ちは素敵です。あなたに罪はありません。あなたはあなたらしく生きて欲しいと思います。
その一方で、障害者ゆえに差別を受けている人もいますよ。就職、恋愛、結婚、交通機関などのバリアフリー、最近も名古屋城で車イスの人はお城に上るなと発言した人もいました。
差別は受ける側に責任はありません。差別をする側に問題があるはずです。皆が住みやすい世の中を皆で作って生きましょう。自分だけ出来て終了ではありません。
質問者からのお礼
ありがとうございます。やはりこの世は修行なのかなと思ってます。