hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

いい顔をしすぎてしまう

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

少し前に過去の過ちについての向き合い方を相談させていただきました。その時は詳しく内容を書かなかったのですが、今までしてきた失敗や後悔を思い返して、改善したい点がありましたので、今回相談させていただきます。

私は話すことに苦手意識があるため、人とうまく関われず、よく悩んでしまいます。特に誰かと知り合ったときに、最初に必要以上にいい顔をしてしまったり、相手に話を合わせてしまい、会う度にボロが出てきて徐々に離れていってしまうということが今までたくさんありました。そのため、人間関係が長続きしないことが多いです。

私は普段口数が少なくて大人しい性格です。よく思われたいがために良い人を演じるのではなく、無理せず自分のペースで人と関わっていきたいのですが、アドバイスなど頂けたら嬉しいです。
よろしくお願いします。

2023年10月4日 14:34

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

キャラを立てない 先に設定しない 只(ただ)おこなえばいい

自分なりにこれが最善だこれが一番いいだろうと思ってやっておられるのでしょうが、結果どうでしょうか。
すべってしまっていませんか?
自分の納得のいく成果があらわれているでしょうか。
相手や他人、状況、シチュエーションというものは台本通りではありません。
真実、今日のコンディション、今日の心理状態の相手、何から何までみんなこちらの思いとは別の産地直刀とれたて新鮮、想定外予想外のその時限りの特別バージョンなのです。
それがいつでも。
毎日。どこでも。
誰でも。
つまり、こちらの考えていることなど全部自分だけの思い込みだと知るとよいでしょう。
現実は予想通りにならないし、これ良かれと思って滑るぐらいならば、毎回毎回、その場でのアドリブだけでよいのです。
うまくやろうとしたり、自分の考えた通りに行こうと、させる、仕込む、あらかじめ設定してしまう心理があると、現実はそうではないので裏切られたような気持になったり、残念カラぶり失敗だー、自分の思い通りにならなかったことでがっくり来るもんなのです。
いい顔をしようとしてしまうのも、実は相手とちゃんと接していない姿でもあるのです。相手がそれを望んでいるわけでもないですし、あなたにも尊厳がある。
そもそも人間は自分で作り出せるものなど何もないのです。
天地自然からの授かりものしかありません。
たまたまこの世に生まれてきて、たまたま縁があった人やモノ、教えを学び、たまたま今日はそういう流れでしかじかかくかくでそうしているだけなのです。それだって想定外の今日限りの限定劇場です。
だからと言って、今日の今が特別だから大事にしましょう的なベタな話ではありません。
そうではなくて、毎日毎日、いまのこと、いまのこと、全部、毎回あなたの意志とは無関係に起こっていることばかりであるという事を深く知っていただきたいのです。
この謎のおっさんから回答がやってきたという事だって想定外なはずです。
私だって、今日はお寺の奥様方の集まりがあって、さっきまで子供たちの食べる夕食の準備をして、疲れてたまたま開いたらあなたの質問が寄せられていたという予想外、想定外、今日初めて。いい顔をしているわけでもなく、自分のやれること、できること、知っていることをお伝えしているだけです。この世のものは誰のものでもありません。あなたもこうしなければならないという事もありません。只。

2023年10月4日 18:45
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
回答ありがとうございます。

アドバイスを読ませていただいて、自分は人から優しくされたいと思ってるから、みんなも望んでいるだろうと思って無理にいい顔をしていたなぁと、ハッとさせられました。

私は人と話すのが苦手で、それを隠そうとフレンドリーな振りをしてしまってました。

でも、相手の立場に立って考えたときに、私だったらあからさまに優しくしてくる人よりも、無理をせず自然体でいる人と仲良くしたいなぁと思います。

相手の立場に立って考えてみる
このことができてなかった気がします。。

人に優しくしなきゃいけないだとか、
うまく話さなきゃいけないだとか、
固定概念を捨てて、自分のペースで話したり、人と接していきたいと思いました。

何度も同じことをして後悔した経験があるので、これからは無理をしないで自分ができる範囲でやっていくことを意識していきたいです。

煩悩スッキリコラムまとめ