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過去へのトラウマと後悔

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有り難し有り難し 18

初めて相談させていただきます。

私は今学生なのですが過去への罪悪感・トラウマが消えません

小学生の頃、最低な行為をたくさんしてきました。自己中心的な発言、態度、友達への陰口などたくさんの人を傷つけてきました。きっかけは小学生1年生の頃だったと思います。

当時自分は転校初日で新しい学校にもワクワクしていたのですが転校して間もない頃異性の子とトラブルがあったり、みんなの前に立つのがプレッシャーだったり、その他色々です、でも一番の原因はとある走る競技の大会(?)に出た時自分は足に自信がある方だったので自分の思うように走りました。その競技の結果、わたしが仲良かった子の1つ上の順位だったんです。恨みを買ってしまったのかその競技が終わった後から仲の良かった子に酷い暴言を吐かれたり仲間はずれにされたりとずっといじめを受けていました。

いじめを受けているうちにわたしはその競技に出るのが怖くなりわざと骨折したり仮病を使って休んだり大好きだった運動も大嫌いになりました
そこからも最悪なことが続き、異性の子に体型のことをからかわれたり人前に立つ事に恐怖を覚えました

上学年になった頃メンタルの限界がきたのか不登校になりました
不登校になってしまったことによって家庭内の環境も少し悪くなり、私が全部悪い、死んでしまいたいと自傷行為にも手を出していました
誰かが勝手に私の悪口を言っていると勘違いしたりと被害妄想も激しかったです
心療内科にも行き対人恐怖症だと診断されました。


それからわたしは外にも出ずネットに依存してしまいネットの人の事を好きになり、その人と毎日のように連絡をとっていました。ですがその人からも裏切られ、それを機にもうどうでも良くなったんだと思います。それからの私はネットの子を裏切ってしまったり浮気を繰り返したり本当に最低なことをしました。
裏切られた気持ちは自分が1番わかっているはずなのに承認欲求でとにかく認められたい誰でもいいから愛されたいと思うようになっていました。


しばらくしネットから離れ今に至ります
今でも自分がされた事・してしまったことが怖く罪悪感で苦しいです

あの時転校していなければ、いじめられていなければと考えてしまいます。

わたしはこれからどうすれば良いのでしょうか。長文失礼致しました。

2023年10月20日 2:10

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつも毎回最新の時を用いて過去をやってしまっていると知ろう

変えられない過去のことを今やっている。
まずここを百回かみしめることよね♡
今やっているわけでしょ。
そして、今の脳内環境を毎回損ねている。
人生は永遠に今しかないのです。
その今という時はね、永久にフレッシュな状態なのですよ。
あなたがおばあちゃんになろうが、その時授かることはその時点での今日のフレッシュなとれたて新鮮な出来事なの。
そして、そこに突っ込みを入れたり、良からぬことを考えて汚しているのは誰かな?
あなたです。
そして、毎回人生における最新最上の今というフレッシュな時間を過去のことを引っ張り出しては汚している内なる人がいる。だれですか?
あなたです。
要は心の運転の仕方を正しく行えばいいだけ。
買い物行くときにあなたは昨日買ったものを袋に詰めてスーパーに行きますか?
いかないでしょう。
今日は今日のカラッポの袋に今日のフレッシュな素材を入れるように、あなたの心にも今日のとれたて新鮮なフレッシュなことを受け入れるように待ち受けすることですよ。
過去を何度も振り返る心理はそこで未消化なことがあったのでしょう。かわいそうに。でも、いまそこをとやかく言ってもその時の人もその時のシチュエーションももうどこにもない。いない。今日は今日で当時のその人も今日のLIVE中継をやっている。あなたもそう。
動画の再生と同じです。とっくに過ぎたいつのことだかわからない映像をいつまでも何回も見るようなことは今の目の前の現実を捨ててる態度です。

いじめを受けたことは本当にかわいそうですね。残念なことです。
彼ら彼女らもまだまだ未発達で発展途上。人間は永遠に発展途上な生物ですからこそ、あまり深くかかわりすぎないことよ?
さて、何よりも大切なこと。それは、あなたが一番自分をいじめていると知る。
あの時こんなことがなければ、
あの人さえいなければ、
あんなことさえしなければ、

そういうことをやった結果、その行為・行動で毎回ダメージを負っているのはいつのどこの誰の頭の中ですか?
どうして、その一映像をいつまでも取り上げては、口の悪いコメンテーターのようにブーブー自分をいじめているのですか?
そう。無駄なのです。
いじめの本当の真犯人。それは実はアフターインナー自傷行為的な心理なのです。
あなたの目の前にはこっちおいでよと、真新しい世界がおいでおいでと手招きしていますよ?では、合掌。

2023年10月20日 9:55
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丁寧なご回答ありがとうございました
今はまだ辛いことばかりですが強くなれるように頑張りたいと思います。

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