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どんな事も否定される

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私は叔母との関係に悩んでいます。

私は、病気で母を亡くした後、叔母の家の近くに住むようになりました。
10代の頃、人間関係で悩み精神的に病んでしまった経験から、休日は極力一人になる時間を作り、そのバランスを保つ事で何とか仕事を続けております。
仕事には行っておりますが、家に着いた途端、気が抜けたように何時間もぼぉーっとしていることも多々あるのです。

しかし、叔母は、自分の目に入るものでしたか物事を判断してくれないのか、毎日仕事に行き、息抜きのために休日出かけることが、「何もなく、健康で悩みがなくていいわね。」「そんな男性みたいに朝から晩までどうして仕事しなくちゃいけないの?」「休みの日、出かけすぎじゃないの? 遊んでいるんじゃないの?」「本当は毎日仕事と行って、旅行に行ってるんじゃないの?」と言われます。
また、留守の間、勝手に家にきて、「物が多いから捨てておいたよ」と、勝手に掃除されています。
何度か私もやめてほしいと言ったのですが、数日経つと我慢できないのか、また同じような行動をします。

物理的に環境を変えれば解決するのでしょうが、私自身、環境の変化でまた病状が悪化して仕事に支障が出るといけないため、中々住まいを変えることが難しいです。

やはりこういう時は、自分の病状が安定し、物理的に離れるようになるまで、受け流すしか方法がないのでしょうか。

2023年10月29日 13:57

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

否定は打消しではなく99点から100点になるためのサイン。

映画『すずめの戸締り』で、主人公とおばさんとが同居生活をすることですれ違うシーンがあります。祖父母と親との血のつながりがあるとはいえ、親子であったとしてもすれ違うことが多い血縁関係。他人であっても、親友であっても百パーセント仲良しという事はほぼありませんので、そういう行き違いは当たり前というぐらいに考えておく方がよいでしょう。
ですが、そのすれ違いもお互いの誤解が解ければ、赦しあえる。それぞれがそれぞれの価値観をつぶやいているだけです。
親子だから、叔母と姪の関係だからとかではなく、人と人はちょっとした誤解があったりすれ違いがあれば、ただ誤解やすれ違いがあるというだけでは?
だからこそ、そこを補修するためにこそ会話というものがあるわけです。

人にはそれぞれの価値観、世界観というべきものがありますから、おばさんはおばさん越しの価値観であなたに対して「悪いことが無いように」配慮して助言してくださっているだけでしょう。あるいは、自分の時代とはあまりにも価値観が違い過ぎているので、どういうことなのか純粋に意味が分からないので色々言葉をさしはさんでいるだけでしょう。
否定をされる、否定をしてくる、なんでも否定してこられるのであれば、その否定というアクションを上手に「パワーUP加工」することです。

真言「否定は美容液」「私を高める機縁」

人が批判や否定をするんはそれより良い状況の実現の為にこそ否定をするのではないでしょうか?
某国では批判精神を重んじるそうですが、その国はミサイルをバンバン飛ばしているので世界から総ツッコミをされています。ですが、そういう批判は受け入れられないのだそうです。つまり、批判というものは本当は批判をすることで最上最高になるためにこそするものなのですが、批判を用い得る力がないと自分のダメなところ、自分の悪いところを向上させる力にはならないという事なのです。批判が悪いのではないという話です。
おばさんが何でもかんでも否定してくると思われるのであれば、それは誤解。私であれば、その否定の力は治療メスととらえるでしょう。あるいは補修材ととらえるでしょう。あるいはナイス情報として、よりよいコンディションにするためバネとするでしょう。
否定は打消しだけではありません。ここをこういう風にすると百点になるよという99点時点におけるサインと受け取るべきなのです。👺

2023年10月29日 16:04
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

温かいお言葉ありがとうございます。

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