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鬱病になってしまいました

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転職して2年が経ち、まもなく50歳になります。
昨年は父の死去に弟の癌発症等色々とあり心が弱りました。

また、仕事がうまく行かず、同僚からロジカルハラスメント(正論で追い詰める)を受け、1月ほど前より睡眠障害(眠れない、中途覚醒、早朝覚醒)、動悸、震え等が発症し、心療内科を受診、鬱病と診断され、3週間過ぎ、一月休むように診断書を書かれてしまいました。

妻、子供2人に住宅ローン、幸い妻も働いているのですが、妻の収入は私の半分以下…このまま鬱病が悪化し、無職となってしまった場合の事を考えるとどうしたらいいのか分かりません。

自己嫌悪に陥っています、鬱病を治すために心療内科には通っているのですが、このまま治らずに、退職となってしまったらどうしようかと思い悩んでおります。

2023年11月4日 22:34

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が自分の中で人間ルールを作って縛っていることに気づく

日本の伝統文化「道」というものに共通することは「わたくし・我・わがこと・おのれ・自己・自分ラブ・自分優先意識・自分ルール」を無くすことです。
鬱の原因の一つは無自覚ながらの自分ルール。マイルール、わたくしルール。
いつの間にかそれを他人から要求されたか、自分で無自覚ながら立ち上げてしてしまっている。
その自分ルール、自分の期待、自分の願う項目、自分の設定があればあるほど、現実はどうでしたでしょうか?どうだったんですか?現実は思い通りじゃない。期待通りにならない。思ったこととまるで違った。その都度、打ちひしがれるような気持が繰り返されてきた。負のリアクションが必然的に多くなった。
その痛々しい現実と、その時の苦しい負の反応が心にダメージを与えてしまう。
それが何度も何度も繰り返されれば、誰であっても心を病んでしまうのは当然のことでしょう。
だからこそ、道の文化はオノレ・我・自我・セルフ・マイルールを滅する。
すべての道は仏道へと通ずる。
剣道・書道・茶道・柔道・弓道・合気道…みな、自分の身心にあらわれる「自分意識」を優先させることなく、身心の天然の作用にまかせる。
すると書であればオレオレした字にはならん。
職務であれば好き嫌いを優先させず、やるべきことをやるようになる。なすべきことを淡々となすようになる。
ところが現代社会の仕事とはどんなものか。会社が。上司が。あの人が。これをしないと怒られる。失敗は許されない。みんなが悪く言う。結果を出しても報われない。どこもかしこも人間ルールにまみれてます。ひよこまみれぐらい人間ルールがぴょこぴょこと押し寄せてくる。🐣
カラを突き破って出てくるべきはこちら側。
どうせこうだ、きっとこうだ、またあれか、という惰性・慣習・自己防衛からの不安な意識も捨て去る。
目は今日の新鮮な新しい世界といつもともにある。
出会う事は昨日のものは何もない。
頭のデータは古いものを保持し続けていますが、眼耳鼻口身心が遭遇していることは出来立てほやほやフレッシュ。鮮度バツグン。
そこに俺という負のリアクションを持ち込む意識は介入されなくともよい。
仏道とは自己が自己というマイルールに縛られなくなれる道です。
鬱ならばこそ、鬱以前の安らかな心に変えるためにも、自分ルールからの脱却をやさしく求めるべきでしょう。
目は見ているのではない。映しているのです。

2023年11月5日 8:20
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
あれから2か月経ち、薬の力は必要ではありますが、復職できました。
しかしながら、これから給料は下がっていく事でしょう。
仕方ないですね、これも運命だと思って、やるべきことをやっていこうと思います。
自分ルールからの脱却、肝に命じて生活してゆきます。

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