犯罪は運命的なもの?
犯罪は全て世の中のバランスにより生み出されたものではないのかと思います。
世の中の真理で、善と悪のバランスがうまく保たれてるから平和なのではないのかと考えるようになりました。
善か悪どちらに強く傾いてしまえば極端な話、人類は滅亡してしまうのではないかと思います。
世の中でなくともバランスはどこにでも存在すると私は考えます。
それこそ、宇宙そのものも、何かがバランスよく存在してるから、そこに在るんだと思います。
何が言いたいのかというと犯罪が全くない世界は人間として生活する上で何かが欠けてしまうのではないかと思うのです。
そんな世界は未来永劫来ないと思いますがね。
さて、相談の題名にある犯罪は運命的なものではないのかという質問ですが、犯罪者は自然の摂理、つまり自然災害と同じではないかと私は思ってしまいます。
冒頭にも書いた様に、世の中は、宇宙はバランスで成り立っています。
善と悪もその一つです。
そんな中、善ばかりが増えるのは一見良い事の様に思えますが、そうではないと私は考えます。
これもさっき説明したので省きますが、犯罪は自然が生み出したものの一つだと仮定すると大量に人を殺してしまって死刑判決をされた人はその為に生まれてきたのか?と疑問が生まれます。
こんな不条理があるかと思うと怒りを覚えます。
よく、世間から批判が殺到する「死刑になりたくて殺しました」が動機の事件がありますが、あれも自然が生み出した悪人かと思うと非常に可哀想だなと思います。
それから、犯罪者は人権を奪って動物実験などさせたら良いとかいった意見もありますが、私はこれから先の未来、犯罪者になる可能性も0ではないと思ってる為、心が痛いです。(勿論、現段階で犯罪をしようとは微塵も思ってませんがね。)
以上を述べた上で是非お坊さんにお聞きしたいのですが、犯罪は突き詰めていけば運命的なものではないのか?という質問、難しいと思いますが真剣に考えてお答えして頂ければと思います。
だいぶ文章が下手くそですが、全文読んでしっかり回答して頂ければ幸いです。
※尚、私は決して犯罪は良い事であるという事は言ってません。犯罪は許せない行為です。あくまでこういう考え方もあるよねという視点を変えただけなので、そこの所よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人類を考える上で、善悪は危険な思考法です
あまり、こういう壮大な話は言い切るとよく無いことが多いのですが、これは言い切ります。
なぜなら、こと命に関わる場合において歴史上、悪意に殺された人間より、善意に殺された人間の方が多いからです。
これは、悪意を自覚する人間はまさしく悪行のブレーキを意識して踏んでいるが、善意で行う人間は善行のつもりでアクセル全開で行ってしまうからだと思われます。
人類という大きな括りで見れば、英雄も天才も愚人も罪人も運命的なものでしょう。
違う言い方をすれば、確率的・統計的と言っても良いかも知れません。
しかし、個人においては違います。
そこに自由意志のない運命論を仏教では採用しませんし、私個人としても拒否します。
仏教における善とは、「悪を成さないこと」です。
命とは、生きているだけで不足し、他の命を奪うことでその不足を補って生きています。
つまり、命を奪うことを悪とするなら、自分が生きていることそのものが悪です。
だからこそ、自身と世界とのつながりに対して自覚的に生き、悪を認識し、それを避けることが善となるのです。
個人的な視点と、統計的な視点。
これらは自身の中で隔絶して思考することをお勧めします。
「統計的な視点から必ず犯罪者は生まれるから、君のような犯罪者が生まれるのはしょうがないんだよ」という詭弁に陥りやすいからです。
そう、統計的思考で個人の事例を語るのは詭弁なのです。
それよりも、
「私は個人として悪を成したくない」という感情のほうが、人生にとっては大事だと思いますよ。
行き過ぎた決定論は運命論ではありません
運命という言葉は、それを使う人によって意味合いがずいぶん異なる曖昧な言葉です。
実際に起こったひとつの犯罪という現象を見たときに、犯人が自身のそれまでの因縁によって犯罪を実行する状態に向かわされたという大雑把な捉え方をすれば、たしかにそのように言えるかもしれません。
実際にはヒト個人の生存は膨大な数の因と縁の相互作用によって方向づけられますから、「こういうバックグラウンドを持っているヒトはかならずこういう行動を起こす」と言うことはできません。
全く同じ遺伝子を持って生まれ同じ家庭環境で育った一卵性双生児が、細胞一個分の違いもなく成長したり、同時に同じ仕事に就き、同じ人と結婚し、同じ時刻に同じ食事を同じ分量食べ、同じ時に同じ本を読み、同じ時刻に同じ病気になり、同じ時刻に死ぬようなことは無いのと同じです。
ヒトの生存は個人の意思志向以外の要因によって方向づけられているというレベルでの運命論はある程度正しいですが、何もかもあらかじめ回避できない方向に決められているという決定論は、行き過ぎた空想です。
たとえば「5日間もご飯を食べていないヒトは無銭飲食するかもしれない」という予想はある程度正しいですが、「5日間もご飯を食べていないヒトは無銭飲食する」と考えるのは誤りだということです。
善と悪のバランスというのもいろいろに解釈できる言葉で、実際には検証不能ではないでしょうか。今のところ人類は絶滅していませんが、その全体の有様を観察してみると善と悪のバランスが保たれているように見える可能性もあるかもという程度ではないでしょうか。恐竜のように、おそらく「善と悪」という概念すら持たなかった種が絶滅した例はいくらでもあげられると思います。「善と悪のバランス」という概念と種の絶滅はあまり関係ないように思われます。
自然はバランスを保っているという考え方は間違ってはいませんが、これも行き過ぎると無限の現状肯定につながり「何もかも今のままでいいんだ。何も問題はない。ずっとこのままでいいんだ」という見方になってしまい、それこそ「人間として生活する上で何かが欠けてしまう」ことになるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
百目鬼洋一様
何もかも決められてる運命が存在するという考え方は確かに、現状のままで良いんだと思い込んだ生活にしてしまい、何も進歩がなく寧ろ後退してしまう危険性があるという事に気づかせて頂き感謝いたします。
ざっくりとした、善と悪の運命論は正しいのかもしれないが、そこも全否定はしないで、どちらにも偏ってはいけないんだという新発見もありました。
つまり、中道の精神を持つ事が大事だと気づきました。
けいじょう様
確率的、統計的思考で善悪を語る事は確かに詭弁だと思います。
犯罪者は運命に導かれてるから、しょうがないと思う事は、自分の心の中にあるアクセルを思い切り踏んでとんでもない事をしてしまう事に繋がりかねない危険な思想だと感じました。
それから、日常生活を送る上で大切な事を教えて頂きありがとうございました。
この度はお二方、回答して頂きありがとうございました。
また、質問すると思いますがその時はよろしくお願いします。
2人から回答を頂き、考えが少し変わりました。
それは、統計的に考えて善悪を語るのは間違えてるという事です。
ただ、秩序を乱すものはやはり、一定数必要なのではないかと思うのです。
秩序を守るものたちは、管理のし易さで言えばメリットはありますが、逆に乱すものが居ても、種の生存の観点から考えれば必要であると感じました。
追記失礼します。