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宗派についての質問です。

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有り難し有り難し 15

ブッダの教えに救われ日々意識して生活しているけれど
◯◯宗派とかが多すぎてよくわからない場合も
仏教徒といえるのでしょうか?
明確に◯◯宗派の信者だ、と言えないとダメでしょうか?

2023年12月25日 1:42

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ブッダが先生、宗派の開祖は先輩

各宗派でブッダの教えをそのまま教えていればいいのですが、まあ、それなら宗派に分かれることもないでしょうから実際はそうではないのですが、どうしても各宗派ではその宗派独自の教えを伝えます。各宗派の開祖やその弟子たちの。
 もともと、ブッダ釈尊が教えて、同時代の弟子たちも全く同じ教えを教えて、宗派に分裂することのない一味和合のサンガだったのですが、少しずつ教えを変えたり、戒律を破ったりして、分裂していきました。大乗はその極致です。
 日本では、意図的に分裂したグループもあり、仏教がよく知られていないまま、各自がいろいろな経典の教えを選び取り考え修行して教えが異なってしまった仕方ないケースもあります。
 日本では江戸時代までに宗派に分かれ固定してしまいました。明治、そして戦後、最近ではスマナサーラ長老をはじめ初期仏教の経典と戒律のままと言われる上座部の長老方が、ブッダの教えそのものを伝えています。
 ブッダが先生で、各宗派を始めた開祖たちはブッダの弟子ですので、弟子の教えよりもまず先生の大本の教えを学ぶのが「仏教」の学びだと思います。
 そろそろ頭を切り替えて、「仏教?では何宗?」ではなく「仏教?四諦八正道とか縁起とかおもしろいよね」という見方が普通になってほしいですね。

2023年12月25日 7:49
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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釈尊に宗派はない ラーメンは塩も味噌も醤油も同じラーメン

こんにちは、三度の食事よりラーメン大好きなマーボー担々丹下です。
担々麵の上に載っている、あの小さな粒粒は何でしょうか。
はい。
❝ひき肉です。❞
では、チャーシュー麺のトッピングといえば…チャーシューです。
マーボーラーメンになるとマーボー豆腐が穏座ラーメン🍚鎮座いたします。
ですが、メニューが異なってもどれもラーメンではありませぬか。
味噌派の人だからといって塩ラーメンを食べてはならぬなどということはありませぬだ。
ばってん九州とんこつラーメン好きの人であっても別に何を食べてもよいのです。口に合うものがその人にとってもしっくりくるその日その日のラーメンです。
そもそも口はうどんもラーメンもパスタもチジミもなんでも受け入れる。それをこそ宗教・宗派の「宗=おおもと」という。
本来の宗教・宗派の「宗」とは、人間ルールではないのです。
人が仏になる。人が成仏をする。人が安らかな心に目覚める。人が悟りを得る。人がこの上ない心に至る。そこに宗派というものはありません。

山の山頂に至るのにどこの道から入っても到達するところは同じ頂上であり、歩んでいるところは同じ大地です。

太陽の温かさを感じるのに、宗教や宗派の隔てなどありません。
そういう隔てのない様子をこそ本来「宗(おおもと)」というのです。
その「おおもと」ということを説き示さんとする上で時代や人によって伝え方、説き方、受け止められ方が異なっていったというだけで本質は同じ仏心。仏の心。同じ人間の人間史上最上最高の安らかな心というだけです。

ですが、食べ物でもおなじ麺・ルードルでもうどんやそばやラーメンやパスタは同じかといえば違うでしょう。ですが、それぞれの分野で最高最上に「おいしく作ろうとする精神」は同じはずでしょう。
味噌ラーメンでも醤油ラーメンでもつけ麺でも味やスープが違っても同じおいしいものであるように、違いということがあっても「隔て」ということがそこにあるのではないのです。
同じラーメンマンでも味は違ってもそれぞれおいしい、アツい、うまいのですよ。
あいつは曹洞宗だ、あいつは浄土宗だ、あいつは真言宗だ、違いがあっても同じ仏の教えという熱々のラーメンをおいしく作って広めている仏教的ラーメンマンたちなのです。(なんだその喩え 笑)
あいつは最高の味噌ラーメンマンであり、あいつは最高の塩ラーメンマンである。

2023年12月26日 16:27
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「仏教」問答一覧

住職の妻は寺の嫁?

初めてご相談させていただきます。 禅寺の住職と結婚し、数年の内に寺族安名式と寺族研修を修めております。 ですが私の性格上(向き不向き)、どうしても寺の嫁として期待される作務で日々を過ごす・働くのは窮屈に感じてしまいます。 一般企業で就職し、会社の駒でいるほうがずっと働きがいを感じられます。 ですが、結婚を機に引っ越したお寺は田舎で周りに会社が少なく、また菩提寺として檀家さんからのお布施でつつましくも兼業が必要のない所です。 なので周囲も義家族も夫も私に対して「あなたは当然お庫裏さんでしょう」の感覚を当たり前のように押し付けてきます。 もちろん結婚前に夫の言う「大丈夫、難しいことなんてないよ。できるよ」を深慮せずに、大好きな人との結婚に舞いあがってた私に責任が無いとは言いません。 ですが在家のイメージと寺育ちのイメージの乖離にお互いが気付くには、結婚前だと中々難しいものがあると思います。 檀家さんとお寺を護っていこうとする夫や義両親の姿勢は尊敬していますが、結婚して一緒に過ごせば過ごすほど私にはできない、したくない、寺族としては関わりたくないという気持ちが、強く固まってきています。 もちろん人付き合いはしますが寺の嫁と見られますし、狭い田舎なのでとにかく身元が筒抜けなのも気持ち悪いです。日常の買い物ですら監視されている気分ですし、大げさに言えば清く正しく慎ましくあって当然、すばらしい義母に導かれ良き寺嫁になってくださいね。と重圧すら感じます。 婚姻届に寺族の誓約書でも付いていたっけ?と思うほどに信教と職業選択の自由を奪われています。 夫が住職なんだから当たり前でしょ、と言われますが、例えば自衛官の妻に国防の意識を強制しますか…? 仏教だから疑問に思われにくいだけで、義家族と夫の行う宗教マインドに染まりましょう、というのは私からすれば新興宗教の勧誘と変わりないのではと思うようになりました。 頼まれた時に手が空いていれば留守番や片付けくらいはします。ただ毎朝本堂へ手を合わせに来いだとか、夕方の鐘をつく役割をしてほしいとか、寺族の勤めを促してくるのはやめてほしいです。 長くなりましたが私だけは、在家・OLのように過ごしたいと思っていることを どのように伝えればいいでしょうか。相手の人生を否定する気はないのですが、私の❲生きやすさ❳は否定されそうで悩んでいます。

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故人の魂はどこに?

先日大好きな妻が亡くなりました。妻は本当に僕の全てで大事な大事な宝物でした。 子供もおらず、独りぼっちになってしまい、今は絶望しています。生きる目的、意味が全く無くなりました。 僕の唯一つの願いは最愛の妻の魂にずっとずっとすぐそばにいてもらい(お骨も手元に)、自分が亡くなるときに一緒のお墓に一緒に納骨してもらい、そしてあの世でまた会えることだけです。 質問なのですが、49日に審判され遠くへ行ってしまい最終的に極楽浄土を目指すという理解をしているのですが、疑問があります。 白木の御位牌から本位牌となり、魂を入れて頂くと思うのですが、位牌に魂が宿るとするならば、極楽浄土などに魂は向かうのに、魂はいったいどこにいるのでしょうか? 魂は分割され2か所にいるのでしょうか? また、お盆には年に一回戻って来るという話しも子供の頃から聞いており、迎え火で迎え送り火で送り帰って行くということでした。帰ってしまったらいないということなのでしょうか? 極楽浄土等、御位牌、お盆、魂の居場所をわかりやすくご説明頂けますと幸いです。 僕は妻にずっとそばにいて欲しい、遠くへ行って欲しくないと考えております、魂の居場所によっては仏教と考えが合わないのでしょうか? 実はそのように悩んでいる間に49日が過ぎてしまいました、49日の法要は過ぎては良くないと聞きますが今から行って頂くことは難しいのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。

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伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ