hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

宗派についての質問です。

回答数回答 2
有り難し有り難し 17

ブッダの教えに救われ日々意識して生活しているけれど
◯◯宗派とかが多すぎてよくわからない場合も
仏教徒といえるのでしょうか?
明確に◯◯宗派の信者だ、と言えないとダメでしょうか?

2023年12月25日 1:42

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ブッダが先生、宗派の開祖は先輩

各宗派でブッダの教えをそのまま教えていればいいのですが、まあ、それなら宗派に分かれることもないでしょうから実際はそうではないのですが、どうしても各宗派ではその宗派独自の教えを伝えます。各宗派の開祖やその弟子たちの。
 もともと、ブッダ釈尊が教えて、同時代の弟子たちも全く同じ教えを教えて、宗派に分裂することのない一味和合のサンガだったのですが、少しずつ教えを変えたり、戒律を破ったりして、分裂していきました。大乗はその極致です。
 日本では、意図的に分裂したグループもあり、仏教がよく知られていないまま、各自がいろいろな経典の教えを選び取り考え修行して教えが異なってしまった仕方ないケースもあります。
 日本では江戸時代までに宗派に分かれ固定してしまいました。明治、そして戦後、最近ではスマナサーラ長老をはじめ初期仏教の経典と戒律のままと言われる上座部の長老方が、ブッダの教えそのものを伝えています。
 ブッダが先生で、各宗派を始めた開祖たちはブッダの弟子ですので、弟子の教えよりもまず先生の大本の教えを学ぶのが「仏教」の学びだと思います。
 そろそろ頭を切り替えて、「仏教?では何宗?」ではなく「仏教?四諦八正道とか縁起とかおもしろいよね」という見方が普通になってほしいですね。

2023年12月25日 7:49
{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

釈尊に宗派はない ラーメンは塩も味噌も醤油も同じラーメン

こんにちは、三度の食事よりラーメン大好きなマーボー担々丹下です。
担々麵の上に載っている、あの小さな粒粒は何でしょうか。
はい。
❝ひき肉です。❞
では、チャーシュー麺のトッピングといえば…チャーシューです。
マーボーラーメンになるとマーボー豆腐が穏座ラーメン🍚鎮座いたします。
ですが、メニューが異なってもどれもラーメンではありませぬか。
味噌派の人だからといって塩ラーメンを食べてはならぬなどということはありませぬだ。
ばってん九州とんこつラーメン好きの人であっても別に何を食べてもよいのです。口に合うものがその人にとってもしっくりくるその日その日のラーメンです。
そもそも口はうどんもラーメンもパスタもチジミもなんでも受け入れる。それをこそ宗教・宗派の「宗=おおもと」という。
本来の宗教・宗派の「宗」とは、人間ルールではないのです。
人が仏になる。人が成仏をする。人が安らかな心に目覚める。人が悟りを得る。人がこの上ない心に至る。そこに宗派というものはありません。

山の山頂に至るのにどこの道から入っても到達するところは同じ頂上であり、歩んでいるところは同じ大地です。

太陽の温かさを感じるのに、宗教や宗派の隔てなどありません。
そういう隔てのない様子をこそ本来「宗(おおもと)」というのです。
その「おおもと」ということを説き示さんとする上で時代や人によって伝え方、説き方、受け止められ方が異なっていったというだけで本質は同じ仏心。仏の心。同じ人間の人間史上最上最高の安らかな心というだけです。

ですが、食べ物でもおなじ麺・ルードルでもうどんやそばやラーメンやパスタは同じかといえば違うでしょう。ですが、それぞれの分野で最高最上に「おいしく作ろうとする精神」は同じはずでしょう。
味噌ラーメンでも醤油ラーメンでもつけ麺でも味やスープが違っても同じおいしいものであるように、違いということがあっても「隔て」ということがそこにあるのではないのです。
同じラーメンマンでも味は違ってもそれぞれおいしい、アツい、うまいのですよ。
あいつは曹洞宗だ、あいつは浄土宗だ、あいつは真言宗だ、違いがあっても同じ仏の教えという熱々のラーメンをおいしく作って広めている仏教的ラーメンマンたちなのです。(なんだその喩え 笑)
あいつは最高の味噌ラーメンマンであり、あいつは最高の塩ラーメンマンである。

2023年12月26日 16:27
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

とても遅くなってしまいましたが気持ちが軽くなりました。ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ