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わたしは偽善者なのでしょうか?

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わたしは、不安の中にいる人、悲しんでいたり困っている人を見かけると
励ましてあげたい、手伝ってあげたい、寄り添って少しでもほっとしてもらいたいと思うのですが

同時に「あまり関わりのない人だし、優しくすることで好かれたりするのは面倒くさい」
「別に今後仲良くしたいとは思ってないし、人付き合いが増えるのは正直ダルい」
という思いもわきます。

それって、相手のことは本当はどうでも良くて、自分のエゴを押し付けたい、自分がいい気分になりたいだけだということじゃないか?と考えます。

相手が少しでも安らいでくれたらこちらが勝手に嬉しいだけ、役に立てたという実感が欲しいだけ、とても身勝手じゃないかと自分が嫌になります。

こういう考えを偽善者というのでしょうか?
それをわかっていても偽善を続けていいのでしょうか?それとも、中途半端な行いは迷惑だからやめるべきでしょうか?

2024年1月13日 22:04

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

三輪清浄

竹立 様 相談ありがとうございます。

①助けてあげる人、②助けられる人、③その間にあるおこない。この三つすべてにこだわりのないことが慈悲の行いと言えるでしょう。これを仏教では三輪清浄(さんりんしょうじょう)と言います。例えば電車なので高齢者に席を譲るとしたら、席を譲る人、譲られる人、その行いに、なんのわだかまりはないでしょう。譲られた人は感謝の言葉を述べると思いますが、譲った人が何かを要求することはありません。この延長線上にあなたが他人を慈しむ気持ちがあるのだと私は思います。

ですので、あなたはこだわりなく、助けたいと思う時に手を差し伸べればいいのです。見返りとか、後の付き合いのことまで考えなくていいのです。
もし、相手がさらなる行為を要求したり、人間関係を求めてきて、あなたが嫌な思いをするとしたら、あなたは冷静に対処し、出来ないことはできないとハッキリ断ればいいのです。
偽善とは、こだわりを持ち、見返りを要求するような行為をいいますから、あなたはそうではないので、不安にならなくて大丈夫です。

 そして、何度も経験を重ねながら、あなたが慈しみの心を育てて、自分や他人の苦しみに気づき、どうしたらそれが減っていくのかを考え、自分にも他人にも思いやりを向けて、勇気と寛容さをもって自分も含めて誰かを助けていく行いを続けることで、中途半端ではない、満足感が得られるようになっていくでしょう。
私はそう思います。参考にしてください。一礼
追伸:お礼メッセージありがとうございました。経験を積み重ねて学び、試行錯誤することで、自分にも気づき、相手の事も気づき、行為の程度がわかってくると思います。失敗OK!世間は寛容でできているはず(笑)。なんか難しい時は遠慮せずご相談ください。この度のご縁に感謝申し上げます。再礼

2024年1月13日 22:47
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有り難し
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質問者からのお礼

以前にもおこたえいただいた方ですね、今回もおこたえありがとうございます。
誰かに何かをしてあげたいと思うたび、偽善じゃないかと罪悪感があったのですが、ほっとしました。

経験を重ねること、助けるひとのなかに自分も含めること、よく覚えておきます。
周りにいる人が、自分も含めてほっとできるようにするには何ができるか、どうしたらいいのか
時々人に聞いてみたりしながら考えてみます。

ありがとうございました。

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