hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

未来が不安で仕方ないです。

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

私はこの方殆ど気にしてこなかった
「世界情勢」と言うものに
最近触れる機会が多くなりました。

元々心が強くないと言うこともあり
自分自身の不安を煽らないよう
ニュースに目を通さない時期もありました。

しかし環境の変化があり
世の中の情勢に目を通す事が増え
今、自分にある当たり前が
当たり前で無いことに改めて気づきました。

そこから毎日不安で夜もまともに
眠れなくなり食欲不振
動悸などか起こる様になり
旅行やお出掛けをした際にも

今ここでこんな事が起こってしまったら
どうしよう

明日この平和な日常がなくなり
紛争や戦争に巻き込まれたらどうしよう

家族と旅行や出かけられるのも
これが最後なのでは

大切な家族と一生
会えなくなってしまったら
失ってしまったら
そうなると絶対に耐えられない

と言う事が頭によぎり
何も楽しめなくなってしまいました。

またニュースを見ない生活に
戻ればいいとは思うのですが
気になってしまい検索して
最悪の事態を考え落ち込む日々です。

勝手に涙が出てきてしまい
何も手につかない状態です。

どうかこんなどうしようもない
私にお力添えをお願いします。

2024年1月16日 15:04

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

最悪の事態を想定した結果、実際にそうなったわけではない。

むかしむかし古代インドにアーナタラ・ドーショとコーナタラ・ドーショという二人の兄弟がいました。
二人は仲良し。兄のアーナタラも弟のコーナタラも不安や妄想が激しく、いつもあーなったらどーしよ、こうなったらどーしよ?と思考フリーズしていました。ある時、アーナタラとコーナタラは死んだらどーしよー論を考えていくうちに大きな気づきを得るのでした。
( ゚Д゚°)「ん!まてよ?人間はいつか死ぬっつっても、死ぬまで死ぬことを考えてもさ、死ぬ0・00…1秒前までは死なねーんじゃねー?そーっしょ。コーナタラ。」
弟のコーナタラは兄の大いなる気づきを讃えて次のようにいます。
( ゚Д゚¨)「そーっしょ。兄ちゃん。だったら死ぬ時まで死んだらどーしよとかさ、要らん不安に怯えててもしょーがねーから、ほんとにそうなった時、上手に対処すればいーんじゃね?」
二人の兄弟はこれを機縁に出家して兄はソーナタラ・ソーショと改名し、弟はコーナタラ・コーショと改名し何があっても臨機応変にそつなくこなせるようになり、ナルヨーニナルショ教団を立ち上げ多くの人をすくったとかなんとか。ホンマカイナ

死と太陽はみつめるな、と言われますが、死も太陽も最悪の事態も「直面したならば、そこから建設的に答えを求めよ」というのが不安症から立ち直るための大事な視点です。
死ぬことも、いくら死を考えてもいざ死ぬ時までは死なない死ねないから大丈夫です。メメント・モリとか死を思えと世間では言いますが、死ぬからどうなんだ、死ぬからこそ「どうあるべきかを問う」のが仏教です。
あなたもアーナッタラドーシヨ、コーナッタラドーシヨと不安に思うことがある。ならば、じゃ、そうなったときどうするか!を決定しておくことです。
人には「本気になる」という力が眠っています。
普段怒らない人が本当に怒ったらめちゃ怖いように、あなたにもまだまだ眠っているスンゲー力があるのです。
昔の人たちは、やっぱりみんな死ぬこととか怖かったので、(*´Д`)やべー、マジであーなったらどうしよう?と、どんなことがあっても大丈夫になれるチエ、仏道を求めて決着がついたのです。
何事もなく安全でいたいと思うでしょう。
ならばこそ、それがずっと続いてほしいはず。あーなったらこうしよう。こうなったらこうしよう!とちゃんと明確な答えを出せるように建設的に仏の道、チエを真剣に求めましょう。

2024年1月16日 17:29
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

死ぬことも、いくら死を考えてもいざ死ぬ時までは死なない死ねない。
本当に仰る通りです。
いざその時になったら
自分はどの様に行動するのか
詳しく考えた事がありませんでした。
自分を見つめ直す良い機会となりました。
今この瞬間平和であることに
感謝し過ごしていきたいと思います。
ありがとうございました!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ