何のために生きるのか?
度々の質問失礼致します。
過去の質問でも記載した通り、小さなことではありますが自分の中で苦しいことが重なってしまい、生きる意味がよくわからなくなってしまいました。
これまで26年間、成功ばかりではありませんでしたが、与えられたものは淡々とこなし、人道に外れたことはせず、自分自身に恥じない生き方や選択をしてきたつもりです。
苦しい時期もありましたが、それも「いつかは終わる」と信じ、その時その時の楽しみ方を見出して生きてきました。
ですが、最近猛烈な虚無感に襲われます。
新年早々、大きな災害がありました。一生懸命生きていても、どれだけ頑張っても、無情にも失われる命があります。
努力して生きていても報われる保障はない。自分が誰かを愛しても傷つくことばかりだし、大事にしている人間関係もいつなくなるかわからない。お金だって貯めた方がいいという人もいれば若いうちは経験の為に使いなさいという人もいる。
何を信じればいいんでしょうか?
私にとってはここ何年かが全て決断の連続で、怖いけれど、と思いながらも、勇気を出して飛び込んできました。ですがその結果、何もない無力な自分や、不甲斐ない自分を思い知らされるだけです。
本当は他人のアドバイスはほどほどに、何もかも自分で決めて、自分で持った軸をぶらさずに生きていければ良いのでしょうが、私はもう私を信じられません。
悩んでばかりで何も具体的に考えられない、周りの友人たちのように当たり前の毎日を大切に生きることもできません。
26歳のくせにこんなにスカスカで、やりたいことも行きたい場所も、一緒にいたい人も、生きる目的もどこにも見当たらないんです。
仕事でこうしたい、結婚したい、子供がいるなど、自分を何か縛るものがあればきっと目の前のことに集中できるのでしょうが、私にはもう何もありません。
家族も好きなことをしなさいと言ってくれます。ありがたいです。でも誰かにこう生きろと決められた方が幸せなんじゃないかとすら思います。
漠然とした不安に襲われながら毎日淡々と生きてます。
生きるのってこんなに怖いことだったのかと、この年になって気付きました。
死ぬのは怖いです。でも同じくらい先の見えない、正解のない人生が怖いです。
楽になりたいです。先人たちは皆、こんな虚しさを経験したうえで生きてるんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自由とは
なるほど、漠然とした不安感。
確かに人生の歩みが止まりそうになる瞬間であります。
私はあなたより10ほど年長でありますが、その人生の中でもこの世界は随分と自由になりました。
男性は女性を守るもの
女性は家庭を守るもの
上司は責任を取るもの
社員は会社に尽くすもの
多くの「思い込み」がなくなり、多くの立場の人が自由になりました。
女性、男性という属性に捉われず、個人の幸福を目指せる様になったのです。
それは一見するといいことの様に思えるのかもしれません。
しかしその実、
「自分の幸せを自分で決める」
というのはすごく大変なことなのです。
あなたの言う先人たちは、それほどあなたの言う虚しさは感じていなかったことでしょう。
なぜならもう少し昔には生きる理由は社会から、国から、世間から、家族から、友人から、与えられることが多かったからです。
縛りの多い世の中はそれもまた違った虚しさがあったでしょうが、形を変えただけで世の中の虚しさの総量は変わらないのかもしれません。
一つ言えることは、「好きに生きる」とは
「自分の生き方に責任を取る」という重い生き方なのです。
簡単なことでもなければ、実は「どうしてもこう生きたい!」という信念がない多くの人にとってはそれほどありがたいことでもないのかもしれません。
だから、誰かのために生きてみましょう。
笑顔が見たい誰かの、それはご両親でも、お友達でも、好きな人でもいいのです。
誰かを笑顔にするのはわかりやすいです。
そう言う、わかりやすい生き方をしてみてもいいのではないでしょうか?
質問者からのお礼
ありがとうございます。
でも、もう誰のために生きたいもないんです。ごめんなさい。