hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

殺してくれ

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

殺してくれ

2024年1月26日 9:39

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

殺すべきはわが身に非ず。わが身のオレオレオラオラした我の心。

はい、では殺してみましょう。
殺してくれとか言っておられますが、そこまでの覚悟がおありでしたら、その死にたい、殺してくれという叫んでいる本体・主体をサーチしてみるとよいでしょう。すると大体、自分の、俺の!オレ流の!マイルール、マイワールド、俺が俺の俺的な!自己中心的な暑苦しい我の心だということが見えてくると思います。
そこまで見抜けば本物になれますよ。
ただし自分の身心は傷つけちゃぁいけませんよ。
よって、殺してくれぇなんていう言葉も自分を傷つける作用になっているから言わんほうがイイ。我だもの。
心の中で自分が発した言葉が心の中でどういう作用をしているかを見つめてみましょう。
すると、無自覚ながら発している言葉のおおよそ大半が自分を傷つける内容になってしまっている。
そういうことを無自覚ながら繰り返しているからあなたの本心、仏と昔の人が名づけたあなたの本当のこころ、命の尊厳が苦しくなっていき場がなくなる。だから、死にたい、殺してくれぇ、と言いたくなる。
生きてる中で何があったかは知りませんが、過去を思い返して取り上げては問題にしてどうにもならないことをいまさらネチョコチョかき混ぜてはああ、失敗したぁ意識にまみれる。そのどろどろしたダーク品質の思いにチョコまみれぐらいにまみれる。ひよこまみれぐらいにまみれている。
そういうダークでネガティブで暗く、悪い、元気にならない「思いのアクションの玉」を無数に自分が!作り出している。そういう自覚を持つ。
オムライスの卵だって、目玉焼きだって、卵焼きだって下手にかき混ぜすぎればうまくいかんのですよ。🍳
心の中だってそう。
心が身心脱落、仏、成仏状態になりたければ、そういう分析マインドの箸であちこち心の鍋をつつきまわさないことです。かき混ぜれば濁る。
ああ、おれが自分で変なかき混ぜ方をしていたのかぁ!と自覚する。
そして、自分をいじめない思いを念ず。ダメージにならないアクションにつとめる。
人はなかなかそういうことを教えちゃぁくれないし、救っちゃぁくれない。
自分の歯も自分で磨かなきゃ、誰もきれいにしちゃくんねぇ。
我を殺してほしけりゃ、その自分の我の浅ましさ、エロさ、アホさ、だらしなさ、我の自分ラブラブした気持ち悪さを見抜いて、恥じて距離を置く。
自分は殺さんでいい。わが内なる我の心から離れれば貴方の本来の仏の働きが開かれます。

2024年1月26日 10:41
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
今日会社を、休んでしまいました。
苦しくて半休してしまいました。
ゆっくりこころを観ていきます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ