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苗字が嫌い

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自分の苗字が嫌いです。響きとかもなんですけど、すごく変というわけではないのですが。
小さい頃からいじめられていて、名前で呼ばれるよりわざと苗字で呼ばれることのほうが多かったです。
アルバイトでもよくいじめられ、やはり苗字で呼ばれるのが当たり前でした。

いじめと苗字は関係ないですが、人から苗字で呼ばれることが大嫌いで、また、嫌いな父の方の苗字なので、嫌というのもあります。

結婚はできないし、私はどうしたらいいでしょうか?これから施設にはいる予定なのでますます苗字で呼ばれることが多くなりそうです。

おかしいかと思いますが…
いい方法はないでしょうか?

2024年2月9日 8:59

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言葉を超える修行

こんにちは。
(^-^)
お気持ち、とてもよくわかります。
私の苗字は「丹下(たんげ)」です。
小学校の頃のあだ名はたんげ、◎んげ、△んげ、◇んげでフルコース。
もともと父母の姓は細川、遠藤でしたがお寺の関係で丹下になりました。
変な響きです。読み方すら間違えられます。
郵送物、手紙などは舟下、円下、極めつけは凡下です。( ゚Д゚)どこみてやがんだコンニャロメ。どう読んだら丹が凡になるんだコンニャロメ。一本足りねぇってかコンニャロメ。面白いので時々凡下と名乗っています。笑
おまけにタンゲなんて名前はおよそ架空キャラ、アニメ分野ばかりであしたのジョーのセコンドのおじさんと片目片腕片足の武士の丹下左膳ぐらいと声優の丹下🌸ぐらいです。
子供も同じ目にあってますがたくましく生きております。
子供ですらへこたれないのですから大丈夫です。
只受け止め方を変える。
深く考えない。
音として捉える。
海外の響きとしてとらえる。突き抜ける精神が大事です。
抗うのではない。成りきる。
そのためには言葉の意味にとらわれたり、言葉に勝手にネガティブな意味を添えたりしないこと。
仏教には「声明(しょうみょう)という特殊な文化があります。
仏の姿かたち、有様、功徳、法の姿をあらわす文言を節回しをつけて読むのです。
中には、たった一文字「妙」を何分もかけて読むものまでもあります。
「妙」(みょう)であれば、みょうといわずME~(め~)と読むのですが、はたから聞いたたら羊がないているのかと 思うぐらいです。🐑
僧が喝する喝、夷、露という言葉も意味すらありません。
意味も超える。あなたの苗字は妙なるものです。
歴史があり、由来があり、意味があり、尊重されていたからこその名前です。
勝手に悪い意味を添えてはいけません。
チョコ一つでも悪く思えば虫歯になるわニキビできるわ太るわイチャモンつけ放題です。あなたが自分の名前にイチャモンやケチをつけるような心理に負けていると心得ましょう。悪く言えばお相撲さんだってデ◎といい、おからや酒かす、カステラだってカス呼ばわりです。
今年の雪を見たときにそこに良い悪いの意味はまだ生まれていなかったはずです。
どんなものにももともと人の価値や意味付けのないさまがあります。
今から、自分の名前を何度も読んで意味を超えてみましょう。
以上、下の下の下、丹下凡下からでした。

2024年2月9日 11:19
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

あまり気にしないようにします

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