悪気のない人がひたすら恐ろしい
以前、自分の落ち度でとある人にお叱りを受けたとき、いわゆる放送禁止用語(あとで調べたので確かだと思います)を使って厳しく言われたことがあります。
その言葉は、精神疾患を持っている人を揶揄するのにも使われ、実際に精神疾患を持つわたしは傷つきました。
信頼できる専門職の方にそのことを相談したところ、「もともとがあなたの落ち度といっても、傷ついた自分を認めて受け入れるのは当然のことだ」と言っていただきました。
その言葉をいただいて、70%ほどは自分の中で整理がつきましたが、どうしても本能的な恐怖心までは消えません。
お叱りを受けたとき、精神科や心療内科に通っているか聞かれましたし、「精神疾患は遺伝する」とも言われました。
怖いと思ってしまうのが、叱ってきた人が悪意ではなく「助けてあげる」という善意でこれらを発言されたことです。それなりの地位も名誉もある人で、もしその人とわたしで対立したとしたら、周囲はその人のおっしゃることを正しいとみなすでしょう。
でも、精神疾患と付き合うひとりの当事者として、どうしてもその人の発言は許せません。まったくの善意で発言されたことも恐ろしい以外の言葉が見つかりません。その人がこの世からいなくなればいいのにと願ってしまうほど、恐怖と怒りにさいなまれています。
どうすればこの恐怖と怒りに折り合いをつけ、心穏やかに日々を過ごせますか。また、どのように心をもてば、社会的に影響力のある人がこのような発言をしても、必要以上に恐怖にかられず生きていけるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
過ぎ去るもの
基本的に、人からどんなキツい言葉で怒鳴られても、それは音声、つまりは空気の振動にすぎません。
その空気の振動は、あなたの耳の鼓膜を破るほどの威力はないでしょう。
だとしたら、音声が聞こえている瞬間だけ恐怖や不快感を誘発しても、あくまで一時的なもの、必ず過ぎ去る一過性の出来事にすぎません。
ホラー映画やお化け屋敷と同じ。
見ているときだけ恐がればよい。
見ていないとには恐がる必要はないのです。
海外では、戦争やテロで生命のやり取りをしています。
それに比べれば、たとえ放送禁止用語だとしても爆弾や機関銃ではないので危険性は低いはず。
「耳の鼓膜が無事だったらすでに危険は通り過ぎている」と思いましょう。
質問者からのお礼
願誉浄史様
さっそくのご回答、ありがとうございます。
どんなひどい言葉も空気の振動。確かにそうだと、目からウロコといった感じです。
ただの空気の振動に意味をつけて思い惑っているのは、まさにいろいろなご導師様もおっしゃっていたとおり「煩悩」だと思いいたりました。
ソクラテスも人に怒鳴られたとき「ガチョウがガアガア鳴いて怒る奴はいない」と平然としていた、という話も思い出しました。
ただの空気の振動に苦しんでいては、限られた時間がもったいないですね。