なぜ人は罪深いのに生きていてよいのか
わたしは子供の頃から、両親との関係もあり人との境界線を引くことが下手でした。病んだ人を助けようとして共依存したり、嫌なことを断れなかったりして地獄のような日々でした。今は心も落ち着きましたが、ずっと引っかかって先に進めないことがあります。
カウンセリングで心を見つめていくにつれ、健康な人間というのはわりあい利己的に生きていることがわかりました。嫌な人がいれば避け、好きなことをする。自分を愛しているから、人を愛せる。
その仕組みはわかるのですが、私はそこに躊躇しています。
現代で、人は罪を逃れられません。私は、虐殺だって、社会にある色々な闇だって、自分と無関係と思えません。すべては繋がっています。たとえば、私たちの服はウイグル自治区の子供が作っているかもしれません。多くの家畜を食べ、畑の為に森を壊します。富や権利が運よく不平等に分配されているから平和に生きているだけで、私たちの殆どはお金や食べ物がなければすぐにあさましい人間になると思います。
わたしの両親は「普通の人」でしたが、社会でストレスを受け、立場の弱い子供である私を虐待しました。でも世の中の「普通の人」が追い詰められたなら、弱い立場の人間に酷いふるまいをすることはたくさんあるだろうと思います。
正常になる、健康になる、ということが、逃れがたい人間の悪や罪に目をつむり、「自分は幸せになっていいのだ」と許すことなのだとしたら、私はそれこそ狂っていると思ってしまいます。それが、ずっとずっと怖いのです。
世の中では、自分を善人とか繊細な人間だと信じられる人ほど幸せそうに見えます。自分が外側に「持っている」状態で満足し、それがあたかも人格の証明のようですらあります。それは殆どの場合、時世の運にすぎないでしょう。
言葉は悪いけれども、愚鈍な人ほど幸せな世の中のように見えます。だからわたしが賢いとかいう話ではなく、なぜ当たり前の事実として誰もが抱えている悪を見て見ぬふりして気楽に生きていけるのかがどうしてもわからなくて苦しいのです。
わたしは、自分のなかに明白に悪があると思いながら、しかもそのわたしが救われることを許して生きていくということが理解できず、身動きがとれずに何年も苦しんでいます。
よいたすけがあれば、ご教示くださいませ。
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ご質問ありがとうございます。
確かにみんな自分が一番大事です。
しかし、例えば海の中で自分がボートを持っていれば近くの溺れている人を助けることができます。持っていなければ溺れている人と一緒に溺れてしまいます。
ですから自分を大事にすることは人を大事にすることにもつながります。
また、自分は1人では生きていけません。
周りの人の助けがないと生きていけません。
ですから、周りの人を大事にすることは自分を大事にすることにつながります。
なので、自分を大事にすることも、人を大事にすることもどちらも大事なのです。どちらが優先とか比べずにどちらも並行して大事にするのがいいです。
また、私は信者の方からもらうお布施で生きています。信者の方が自分のことだけを考えていたらお布施は出しません。しかし実際はお布施を出しています。それはもちろん執着を捨てる修行という意味が一番ですが、実際の心情には仏教やお寺やお坊さんを応援したいとか、間接的に社会に貢献したいという意味も含まれていると思います。ですから私も仏教の維持や伝教だけでなくハスノハやいろんなボランティア活動をしております。
また、コンビニで買い物する時に募金箱がありますがいつもお金が入っています。
日々の忙しい生活の中で遠くにいる苦しんでいる人を助けることは難しいですが、みんな募金など自分にできる範囲で助けているのだと思います。
地震の時もボランティアの人が家の掃除をしてくれている様子をテレビで見ました。
偉いことだと思います。
人間について納得のいかないことがたくさんあると思います。
ですが良いところもあると思います。
あなたもあなたにできる範囲で困っている人を助けてあげてくださいね。