禅宗コンプレックス
浄土宗を信仰していますが、禅宗へのコンプレックスがあります。
道元禅師は「曹洞宗なんて言わないでくれ。釈尊の仏教そのものだから」という姿勢だったそうですが、なるほど釈尊が菩提樹下で坐禅(のようなもの?)をして悟りを開いた以上、禅宗が仏教のメインストリームであることは自然だと思えます。
我が浄土宗も「禅宗のような自力行に耐えない人は念仏しましょう」だったらまだ問題無いんですが、法然上人の主張では称名念仏だけが正道だと説くわけで、行者の機根の問題だけでなく行としての坐禅をも退けてしまっている。これはやり過ぎなんじゃない?と思うわけです。
浄土系のお坊さま方はこんな思いになることはありませんか?
また、禅宗のお坊さまからのご意見も聞きたいし、もちろんその他の宗派のお坊さまからも広くご意見聞かせていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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行の好み
こんにちは。浄土宗の機根のこともご存じなのですね。その上で「坐禅で悟りを開こう」と思うなら、ぜひ試してみるとよろしいと思います。
確かに顕教(言葉としての教え)は「お念仏を唱えましょう」ですが、これ実践していくと、その結果として得られる安心は、確かにあると感じるのですよ。つまり「同じ文句を口に出して唱え続ける」には、言葉で言い表せない部分が出てくると。それがお釈迦さまのお悟りと同じかは分かりませんが。
よく禅宗のお坊さんの坐禅中の脳波を測定して…とかの話はありますが、お念仏している時の脳波も、確かに普段とは違うことを体感したりします。
なので私の言いたいことは、「やってみて、自分で体感する」を試みたらどうか?ということです。
座禅で悟れるのならば、確かに極楽往生してから云々…よりも短距離でしょう。それがあなたの機根を知ることにも繋がります。あなたが今後、印可を与えられる可能性だってある。無理だと諦める可能性もある。
あれこれ論じても、結局「自分はそれでヨシと思えるか否か」が大切なので、座禅会へ行き、「私も悟りたいので座禅させてください。因みに和尚様は悟っておいでですか?」と確認してはどうですか。身を晒さずに頭の理解だけで悟りを得るのは、どの宗派であれ難しいと思います。
私から見て、禅宗のお坊さんで「素晴らしいなあ」と感じる方はいらっしゃいますが、禅宗の坊さん全てがそう、とも思えません。禅宗でも法華経でも「素晴らしいなあ」とは思うものの、結局は人によると思います。だから、私は他宗に対してコンプレックスを抱くことは、ありませんね。
花果山様
お久しぶりです!。私の親戚にも曹洞宗の坊さんがいます。今までこういった話はお酒の席でばかりしていましたが、「そういえば」とちゃんと話して自分なりに整理したいな、という気持ちになりました。ありがとうございます。
「悟った、悟っていない」はどうやら主観だけではすまないようで、必ず師匠から印可を頂かねばならないようです。確かに昔の禅僧たちは「私は悟った」と書き残していますが、だったら平安時代の「臨終を迎えたら紫の雲が現れてお迎えを目にした」はどうなんだと…。「お悟り」が言語化されず(しきれず)いる、というのが困ったところでもあり永続性でもあるような気がしています。またお話しましょう!座禅体験談も待っています!
質問者からのお礼
>佐藤上人
お久しぶりです!また回答をくださって嬉しいです!
坐禅してみて万が一悟っちゃうと、「末法では称名念仏して極楽往生するより他に悟る方法は無い」という浄土宗の教えが間違いということになっちゃいますが、それは取らぬ狸の皮算用でしょうか(笑)