「無になる」って難しいことなの?回答受付中
最近、曹洞宗のお寺での坐禅会に月1で参加しています。
初回時、住持さんの説明だけで、すーっと無になれて小鳥のさえずりしか聞こえない状態になった旨を職場や美容院で話したら、「そんなすぐにできることある?」とか「いや、そもそも“無”ってどういう状態?」などと言われたのですが、「何も考えない」「無になる」のは難しいことなのですか?
私は度々私生活の中で「無になる」ことがあるのですが…(ボーっとしているわけではなく、本当に何も考えていない)
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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無は「気にしない」に近い意味
エイキさん、坐禅会お疲れ様です。坐禅で悩むことはありがたいです。これからも続けてください。ご自愛ください。
私は無になるとはどういうことか ?私なりの見解 解釈を述べさせていただきます。
本を読めば色々な僧侶の方々が表現しておりますが、無とは気にしないことでございます。
「無」とは、よくアニメで一休さんが慌てない慌てないと言っていますが それが無です。自分は無になれたと思った時点で無ではありません。一番は意識しないこと 執着しないこと 気にしないこと 慌てないこと これが無ではないでしょうか。
自分の好き嫌い こだわり 感情 一度それは傍らに置いておいて物事を見てはどうでしょうか。坐禅は一度そのような心を落ち着かせるために行います。坐禅をするから無になるのではありません 。無にするから 坐禅になるのです でも 坐禅をしないと無理はなれません。
何言ってるんだろうと思うかもしれませんが その何言ってるんだろうを理解するのは言葉ではなかなか難しいです。ある日突然ふと湧いてくるものでございます。午前中 鳥の声が聞こえた。車の音が聞こえた。電車の音が聞こえた。ただそれだけです それがうるさいとか綺麗な声とかそういった感情を持った時点で無は無ではなくなります。永遠に無になるという状態を作るのはやはり私たちは生きていて 難しいかもしれません。でも1分だけ 10分だけ 1時間だけ、何も気にしない時間があってもいいのではないでしょうか。それが無の私の見解でございます。私からは以上です。信じるか信じないかはあなた次第です。
思考に執われず自然に身体と心が調和する境地
ご質問ありがとうございます。
「無」または「無心」とは、思考が完全に止まるのではなく、「思考にとらわれない」状態を指します。
つまり、思考に執われず自然に身体と心が調和する境地ことです。
禅の修行などで言われるのが、雑念や評価・批判など、心の中の思考の網(観念や執着)が静まり対象へのとらわれが解けた心のあり様で、物事をありのままに受け取っている状態を指します。
決して「ぼーっとする」「何も考えない」わけではなく、周囲の音や感覚、体の動きに全身で対応しながらも、そこに「良い/悪い」といった評価を重ねない状態が「無」であります。
よく、何かに没頭した時や、スポーツで「ゾーン」に入った瞬間や、体が勝手に動いた状況も「無」に近い感覚になっているのではと思います。
さて、エイキさんが座禅で感じた、「小鳥のさえずりしか聞こえない状態になった」といった感覚は、先ほどお伝えした「無」の状態にちかいと思います。
坐禅で無心を体験できたのは、エイキさんの素地と、住持さんのガイドがよく機能したからこそです。
職場や美容室で「難しいのでは?」と言われても、坐禅で得られる無心は他者の常識では測れません。むしろ、「日常で無心を感じることがある」エイキさんの経験こそ、禅の本質に近い証しなのだと思います。
是非、これからもその感覚を大切にしていただき、日常に生かしてみてください。
集中力。
たぶん集中力が高いんじゃないかと思います。
集中していれば
誰でもそうなるはずですが
個人差はあるかもしれません。
職場や美容院で話された方も
自覚されていないだけで
そういう状態になったことがあるはずです。
ただ「”無”になる」という表現に引っかかってしまって
何か特別な状態になることだと思ったか
大げさにとらえただけではないかと思います。
仏教でも、教えを学ぶのに
集中力を高める訓練は重要とされていますが、
申し上げたように個人差があるようです。
エイキさんについては
もともと素質があるのではないでしょうか。
ずっと坐禅を続けてその住持さんからいろいろ教わるのもよいでしょうし
日常に生かせる程度でその時間をゆったりたのしむというのも
よいと思います。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
>平野晃嗣さま
「気にしないこと」は難しいですが、確かに感覚の話なので他人には分からないもの。しかし、「無」がどういった状態のことを指しているのかは理解できました。その時にあったこと、いわば基本の文法みたいな状態が無なのですね。今月も坐禅会があるので引き続き参加します。
>古川玄峰さま
ふむふむ。「思考にとらわれない」状態ですか。
何となく「無」というと思考が停止しているイメージがありましたが、“周囲の音や感覚、体の動きに全身で対応しながらも、そこに「良い/悪い」といった評価を重ねない状態が「無」”と聞いて、私が坐禅会へ行っているお寺の住持さんが「何かを思い出しても、それを追わないこと」と言っていたのを思い出しました。長らく同じお寺に通ってみようと思います。
>吉井浩文さま
「無になる」という表現は「なる」が、”ある状態から別の状態へと変わる動詞”だと思ったためこの形になりました。しかし実際にご回答を見る限りでは少し違うようですね。
集中力…ですか。仕事中は注意散漫になっていますが、そういったシーンに置かれると、そうなるのかもしれません。
皆様、回答ありがとうございました!