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偏見が辛い。

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子供を出産して子供が発達障害。知的障害があり私も検査を受け知的障害がありました。療育手帳を持っていて障がい者雇用で働いていますが、一部の職員からは腫れ物に触る扱いで、お昼も話をかけてもらえずこちらからはしっかりするのに挨拶もしてもらえません。長いママ友に実は障がい者である事を話したらラインもランチの誘いも一切来なくなり寂しいです。やはり偏見があるのかと思います。まだ身内には私が障がい者である事を話していません。知っているのは母だけです。身内に話すと縁を切られる気がして怖いです。学生時代の友人もこれ以上失いたくないです。私はどうしたらいいでしょうか?

2024年6月15日 6:17

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

障がいという言葉の本質を見極め、染まらない事実に生きる。

✨(´ー`)
実は障害に対するネガティブなイメージを払拭すべきなのはあなた自身なのです。
自分がそれを問題にしなければ気にすることもないからです。
まずは障がいに対するマイナスイメージ、ネガティブなイメージを払拭しましょ。
観音さまのように広く大きく考えましょ。
観音様には5つの智慧があり、広大智慧観というものがあります。
広く、大きく考えましょ。
この世のすべての人たちはみんなある種の障害・ハンディキャップを抱える人たちなのだ、と。
極端に言えば、どんなインテリさんであろうと運動能力にに恵まれたスポーツマンでも、世間を騒がせる事件を起こすことはあるでしょう。あるいは表に出てこないだけで人々から完璧と思われている人であっても不完全、発展途上なのです。
同級生や知人もそうだったはずです。なんでも完璧に見えるような人でも、何かが欠けている。みんなと協調性がない人でも他の人にはできない何か優れた力を持っている。むしろ完璧とは何でしょう?この時代に必要なのは何でもできる完璧さではなく、あなたがあなたという生命の花を咲かせ、あなたという果実を実らせることなのです。それは遠い将来ではなく、毎日。今日。今。今私、このままで完全になる事。
この世は誰もが不完全。不完全だからこそ、お釈迦様も何とかしたいと思って出家して自分自身に向き合って、自分自身の本来の在り方、自身の仏のはたらきに目覚められたのです。
その不完全にして発展途上なる人類ひとりひとりの賢明なる姿こそがそれ以上でもそれ以下でもなく完全にしてパーフェクト、仏なのです。
私のこの回答だって、発展途上で不完全ですが、これはこれであなたや障害を抱えている人に向けた私なりの現在における全力投球でやり直しも聴きません。完全燃焼なのでアンチやダメ出し反発意見もあるでしょうが、これはこれで多様性で、個性・独自性で完璧なのですよ。
確かに時代やまわりはまだまだ障害という言葉に偏見を持っている人たちも多いでしょうから、無理して私は障害を抱えてまーすと前面に出す必要なんかないのです。障がいを抱えているからと言って、その活動が、呼吸が、発言が何か問題でもあるのでしょうか?
人の活動の一つ一つを良く見つめてみることです。そこに障害ですなんてラベルやプラカードが付随するでしょうか?
私は私として今日も私を生きている。それで充分なのです。大丈夫。

2024年6月15日 8:41
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様。温かいお言葉ありがとうございます。障がい者であると無理して周りに言う必要もないですね。世の中完璧な人は居ませんね。自信を持ってこれからも私らしく生きたいと思います。

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