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まだ続くのかよ人生は

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有り難し有り難し 6

掲題のような思いに囚われ続けています。
28歳です。
こういう想いは一過性のものだと思っていたんです。仕事やプライベートで辛いことがあった時にこう感じてしまうものだと。
ところがどうもそうじゃない。就活を乗り切っても、仕事で成果を出して給料が上がっても、転職をなんとか成功させても……いっときの興奮や充実感はあまりにもろくて。まあ今は転職3ヶ月目の壁とやらにぶつかっていて気持ちが沈んでいるからかもしれないのですが。
この先あと50年程度生きるとして、ずっとこんな思いに囚われ続けながら生きていくというのか? と想像すると、ずいぶん長く苦しい旅だなぁとげんなりしてしまいます。
子ができると変わるんですかね? それとこれとはまた別問題な気もしている。俗に言うクォーターライフクライシスなのかしら? 
何より自分の性格上ずっとこんな感じなんだろうとある種の運命感、諦めを感じてしまうのですよね。
うーん、虚しい。この虚しさを抱えながら生きていかざるをえないのはなかなか厳しいものがあります。
この虚しさと人生がワンセットだとしたら辛すぎませんか? 周りが見えなくなるくらい何かに熱中できる人が羨ましい(けど飽き性なのでそれも無理そう)

少しでもやわらげる、あるいは受け入れて人生を全うするヒントを授けてください。どうかお願いいたします。

2024年7月2日 7:35

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

続くのではない

公案
「この世のあらゆる門は入り口だろうか?
それとも通過点だろうか?
それとも出口だろうか?」

門。それは、あなたの人生のことです。「今」のことです。

ご自宅にある、ドア、ふすま、玄関、お風呂場、トイレなど、入る際、まさに「その時」「そこ」を通過する際、くぐる際、出ていく際によくよく考えてみてください。本質とはなにか?
言葉を超えた真実とは何か?
俺は、言葉で偏ったものの見方に陥っていないか。
人生が「つづく」とかいう、先読みの、いまだ起こってもいないことを頭で思い描いて、どうせツマランもんだろうとか、斜め下からのグニャグニャ目線でうがった見方をしていないだろうか…!?
そして、真実を明らかにしてください。

ここでいう「門」とは、今のこと。
あなたの人生のことです。
今日はあなたの人生の最終の日であり、通過点であり、今までの人生から解放された真新しい一日です。
さぁ、どうとらえるか?どう考えるか?どう答えを出すか?
答えは無限にあるようでも、仏道における答えは一つしかない。
そもそも考え方などというものは無限無数に、人の数だけ、いや人の数以上に無限にあるわけです。
無限にモノの見方が可能「観自在=眺め方も自由自在」なのに、どうしてたった一面、一つの角度、一面的にとらえて、偏ったものの見方で、こんな人生なんて…、と💀やさぐれモードに陥るのか?
「この世界に存在する上り坂の数と、下り坂の数はどっちが多いですか?」
片方からだけの坂なんて存在するのですか?
どうして、同じ数しか存在しないはずのない坂を人は悪い面ばかり見ようとするのでしょうか。
あなたがクリアすべきことは、これから先の人生云々ではない。
言葉を塗りたくり、塗り固めて、真実を見ようとしないその心理をきちんと見つめて、事実そのものを情報なしに「しかと見届ける」ことです。
そこを見届けた時、あなたはあなた自身から解放されるでしょう。
ああ、自分は自分で思い描いた、自分で作り出した自分の内部のネガティブビジョンによって、自分自身の人生を何とつまらないものにしていたことか…!と。

2024年7月2日 17:03
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
仰る通り、今より先がある保証なんてどこにもないですよね……了見の狭さを反省いたします。
言葉遊びで自己満足する前に一瞬一瞬を無心に、やるべき仕事や人の役に立つことをして過ごしていきたいと思います。

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