後悔ばかりです
先日祖父が亡くなりました。
私は初孫ですごく可愛がってもらっていました。施設に入る前はしょっちゅう会いに行っていたのですが、入ってから7.8年くらいは何か行くタイミングもなく、結局ずっと会えずしまいで亡くなってしまいました。
他にも、母と弟にはもっと優しくすればよかった。祖母にはあの時会いに行けばよかった。
など後悔ばかりです。
薄情な人間だなととても自己嫌悪に陥っています。
このような気持ちはどうしたら良いでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
その気持ちがあれば、薄情ではないですよ!
質問読ませていただきました。
大切な方を亡くされ、自分の無力さや、もっと相手にしてあげたかったことを振り返って、落ち込んでおられるのですね。
心中お察しいたします。
生あるうちに、悔いのないようにできる全てのことをしてあげる・・・
なかなか出来ないことです。多くの方は、大切な方を亡くされた後に、「もっと〇〇してあげればよかった・・」と後悔されます。
ただ、それは仕方ないことかもしれません。自分にも生活があり、してあげられることにも限度がある。それらを調整しながら、自分のできる限りの範囲で相手のことをしてあげる。そうやって生活をしていくしかないんです。
ただし、1つ言えることはあります。
亡くなられた後に、その相手のことを真剣に思いやれる・・それは亡くなられた方のことを大切にしていた証拠です。亡くなった瞬間は悲しんでいても、その瞬間がすぎれば亡くなられた方のことを振り返りもしない方もいらっしゃるのですから。
ですから、質問者様のその気持は「薄情」ではないと思いますよ。
また、亡くなられた後でも、してあげられることがあります。
それは、信用する僧侶に供養していただき、ご自身も仏様に手を合わせて、亡くなられた方の成仏を願うことです。
供養して手を合わせることが、亡くなられた方を救ってくれると共に、質問者様の気持ちを救ってくれ、これからの人生も救ってくれるのではないでしょうか。
何か参考にしてみてくださいね。
祖父が喜ぶことをする
このたびは、大切な祖父様のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。
後悔の念に苛まれているお気持ち、よく分かります。大切な人を失った時、私たちは「もっとこうすれば良かった」と思いがちです。これは、その方への愛情の表れであり、決して薄情な心からくるものではありません。
人は生きている間、様々な選択をします。その時々で最善と思われる判断をしているのです。施設に入られてからお会いできなかったのも、そうした人生の流れの中での出来事だったのでしょう。
ここで大切なのは、後悔の念にとらわれすぎないことです。それよりも、祖父様から受けた愛情や思い出を大切にし、その教えを今後の人生に活かしていくことが、本当の意味で祖父様を敬う道となるのではないでしょうか。
例えば、祖父様が喜ぶようなことを意識的に行ってみるのはいかがでしょうか。祖父様の好きだった料理を作る、趣味を継承する、家族との時間を大切にするなど、様々な形があると思います。そうすることで、祖父様との絆を感じ、前向きな気持ちになれるかもしれません。
また、母や弟、祖母との関係についても同じです。今この瞬間から、より良い関係を築いていく努力をすることが大切です。「今」を大切に生きることが、過去の後悔を癒し、未来への希望となるのです。
自己嫌悪に陥るのではなく、この経験を通じて自身の成長につなげていってください。あなたの中に祖父様の愛情は確かに存在しています。その愛情を糧に、これからの人生をより豊かなものにしていくことが、祖父様への最高の供養となるでしょう。
心からご冥福をお祈りいたします。
蓮城院副住職 コウブン 合掌
多分、そのためにご供養があります。
こんばんは。お別れしてしまってからの後悔、私も色々と思い出したり考えたりします。生きて同じ世界にいる相手なら、何とか(似たようなことを)やり直すことはできるかも知れません。
けれど相手が亡くなってしまっているなら…。反応は想像するよりないですが、一方的に何かすることはできます。
これは、亡くなった方との距離感をどう捉えるか?と関係があるように思います。
無になった、と捉えるより、極楽という違う世界の住人になった、そう捉えることで、私たちのご供養はきっと届く、例えば喜んでくれるだろう、と信じられるのではないでしょうか。
無になった、或いは仏様になった、その価値観は押し付けることはできませんが、もしあなたがその気になってくださるならば、ご供養をすることであなたの気持ちも落ち着くことでしょう。
ご供養の形はさまざま。ご法事することも、お墓参りをすることも、時々思い出して生き様を真似しようとするのも、みなご供養だと思います。キーは「亡くなって、どうなった?」に何と答えるか、どう考えるか。それ次第だと私は思います。