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これはご縁でしょうか?

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有り難し有り難し 6

私は仏教を信仰していない家庭で生まれ育ちました。 

昨年、たまたまある修行のドキュメンタリーを見て、実際にその修行が行われているお寺に1人で行ってみることにしました。

その日以来、私はそのお寺や仏教に強い魅力を感じ、仕事の合間を縫ってそのお寺に通うようになりました。

その場所に行けば心が穏やかになり、元気になります。今まで自分にはできないと思っていたことにチャレンジしてみたり、病気になっても前向きに考えられるようになりました。

大げさかもしれませんが、この体験がきっかけで、私の人生は変わったような気がします。

これは私が成長するためにそのお寺に導かれたのでしょうか?不思議でたまりません。

2024年7月24日 22:15

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

前向きに生きれるための捉え方でいいんですよ!

質問読ませていただきました。

とても素敵な体験をされたのですね!
その気持ちを大切にしていただき、ご自身のペースで仏道に触れていっていただきたいと思います。
その積み重ねが、さらにりーさんの心に光を照らしてくれるはずですよ。

さて、「お寺に導かれたか?」との問いに関しては、私はどちらとも言えません。
なぜなら、世の中の出来事はあるようにあるだけです。自分の過去世の業と、現世の縁によって、色々と形を変えて自分の前に姿を現します。
りーさんの過去世の業と、これまでの人生が縁となって、お寺に導かれたという結果があらわれたのです。それは結果としてたまたまそうなったと見ることもできますが、それを「運命だ」と思えば、りーさんにとっては運命と言えるでしょう。

つまり、大事なのは「運命か運命じゃないか?」の事実ではなく、りーさんがどう捉えるか?ということではないでしょうか。
運命だと捉えることによってりーさんが前向きに生活し、仏道に触れていけるのであれば、それは素晴らしいことだと思いますよ!きっと、その気持ちが、りーさんの人生を豊かにしてくれるはずです!

何か参考にしてみてくださいね。

2024年7月24日 23:16
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有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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ご縁に恵まれて

拝読させて頂きました。
そうかもしれませんね、様々な巡り合わせの中であなたが導かれたのかもしれませんね。詳細なことはわからないですけれども、あなたにとって素晴らしいご縁に恵まれたのかもしれません。
そのご縁をきっかけにしてこれからの未来にお向き合いなさってみて色々なことを楽しみながら体験なさっていってみて下さいね。

あなたがこれからも素晴らしいご縁に恵まれて毎日を健やかに充実なさって生きることできます様に、大切なご縁を深めながら心から幸せを皆さんと分かち合い生き抜いていかれます様に切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。そしてあなたを心より応援させて頂きます。至心合掌

2024年7月25日 9:31
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

初めてまして。
ご回答いただきありがとうございます。
出来事をどう捉えるか、とても心に響きました。捉え方次第で良くなるのであれば、できるだけ前向きに考えたいです。ほんの片鱗でも仏道に触れたのはとても嬉しく思っていますし、なんだかありがたいなという気持ちもあります。これからも私のペースで仏道のことを知りたいなと思います。また質問させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

Kousyo Kuuyo Azuma 様 
ご回答ありがとうございます。
ご縁とは説明のできない不思議なものですね。
ただ、興味を持った場所に行ってみたり、体験してみたりすることで、ほんの少しでも世界は広がることを学ばさせていただきました。私の質問に対してご回答をいただけたのも、何かのご縁だと信じております。今いただいたご縁、そしてこれから出逢うご縁、感謝の気持ちを持って生きていきたいです。私もKousyo Kuuyo Azuma 様が毎日無事に過ごされるようにお祈りいたします。
ありがとうございました。

「仏教における修行」問答一覧

アングリマーラの様になれますか?

お久しぶりです。 以前、アングリマーラに関する質問をしましたが今回もそれに関する質問をさせて頂きます。 自分は以前アングリマーラに嫉妬してましたが次第に憧れを抱く様になりました。 極悪人のレッテルを貼られて周囲からも相当、罵詈雑言を浴びせられたであろうアングリマーラはそんな困難も跳ね除けて仏様になられた。 そんな偉業とも言える事を成し遂げた人物の様に自分もなりたいと言う願望を抱いてます。 生半可な気持ちでは到底無理だと思いますが可能性が0でない以上は自分もアングリマーラの様に悟りを開いて立派な仏様になりたいです。 勿論、お坊さんでも悟りを開くのが困難なのに私の様な劣等種が無理なのは存じ上げております。 道のりは険しく長いですが私も光を纏った仏様になりたいです。 その為には先ず小さな周りへの気遣いだったりをベースに毎日を過ごしていこうと考えてます。 今は優しさを基本にしていき周りから注意を受けたらそこを直す努力をしたりする事の積み重ねが立派な仏様になる第一歩だと私は思っています。 今の私はとても心が汚れて徳もたいして積んでなく寧ろ悪い事の方が多い。そんな小物が簡単に思いつく様な事ですが、それでもアングリマーラの様になりたい。この気持ちだけは本物です。 長い文章を読んでいただきありがとうございました。 お坊さんの方々、私はアングリマーラの様に立派になれますでしょうか?

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達磨大師は架空の人物ですか?

彼は「仏教をよく知らない中国人によって架空に作られた存在」または「達磨さん自体は実在したが、仏教をよく知らない中国人が適当なストーリーを考えただけ」と言われることがあって、「そうかもしれない」と思いました ・ なぜなら彼は悟りを開いたはずなのに、教えを請う凡夫に対して無視のいじめを行ったり、「これは試されているんだ」とポジティブに考えて耐え忍んだ凡夫に「仏教はそんなに簡単に教えてもらえるものじゃない、命をかけろ」と言って凡夫に腕を切り落とさせたりしました ・ とても悟りを開いた人の行為とは思えません。「自分はお前より偉いぞ、そう安安とは教えられない仏教を熟知しているぞ、自分をタダで師事できると思うな」なんていう態度は、「菩薩道」の精神から大きく逸脱していないでしょうか。知識の独占という時点で「利他」じゃなく「利己」だし、傲慢な振る舞いは「慈悲」じゃなくて「暴慢」です ・ それならむしろ、偉いお坊さんにいじめられてもくじけず「自分は試されているんだ」とポジティブに考えた凡夫こそまさしく仏に相応しいのではないかというトリックにさえなってしまっています ・ 彼がもし実在してストーリーも本当なら、彼のスタンスは間違いなく仏の教えを利他や慈悲などで解釈しないただの「知恵」でしかないとする(つまり悟りとは賢いかどうかだけで優しさなど必要ない)「小乗仏教」と批判される類のものだったことが伺えます。やはり、彼は架空のお話で色を付けられた、本来ならば謎多き存在でしょうか?

有り難し有り難し 1
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ