誰にも平等な自分でいたいのに
いつもありがとうございます。
私はどんな時も、どんな人にも平等に接していたいなと思っています。
自分がしんどいと思うときも
苦手な人と接するときも
その人に不快感を与えないように接することを心がけています。
それはいいことであり普通のことだと思っています。
でもずっと不快な態度を取ったり何か言ってきたりする人にも
そんなひどいことをした(言った)人にニコニコしなくていい!
と周りの人が言うくらい咄嗟に明るく振る舞ってしまいます(100%振舞えているかは分かりませんが)。
業務外、飲みの席などのプライベートでは他の人とテンションが違ってしまっているだろうし、こっそり避けたりすることもあるし、ちょっと強めに抵抗してしまったり(責任転嫁された時など)、怒りを露わにしてしまうこともあります。
それで自己嫌悪に陥ります。
うまくやらなくてはならないのに、どんな人とも平等に接したいのに
でも耐えられない日もあるし、しんどいときもあるし
明るく振る舞うから何言ってもいいと思ってなめられてるなと思う時もあったり。
毎日普通に、いつもどおり、いる
ということがとても難しく感じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
決してわるいことではないが...
拝読させていただきました。
過去にハリウッド映画『イエスマン ーイエスー 人生のパスワード』というジム・キャリーのヒット作品を思い出しました。
2008年作品の映画ですので26年前になります。
わたしもこの映画を観たときに「何でもイエスマン」となって自分を試してみようとしたことが数年ほどありました。
になさん同様に、機嫌がよくなる人もいれば、舐めてきたり、利用したりする人なども多々出現し、いとも簡単に人という生き物は、自己都合の良い方へ利権を有したい生物であると学んだ経験があります。
になさん自身は「平等」を大切にされることは、この上なく素晴らしいことですが、現代ではネット産業(グローバル化)されつつある世界では、なかなか平等を貫き通すことは難しい時代でもありますよね。
有名なところでの「平等主義」は、かのインディアンです。しかしアメリカ人によってどんどんその平等感は失われていきました。
仏教での平等感はとても仏の境地からの平等感であるゆえに、人間視座とはすこしかけ離れていることもあります。
平等にも定義というものがありますが、それはその人にとっての平等感であり、になさんの平等感の定義には問題はないものの、対人となる相手に平等感を持ち合わせていない人からすれば利用される対象となりますよね。
成長する平等感は必要です。しかし利用される平等感なら止めるべきです。なぜなら、平等感から相手は甘え、心に甘えの栄養を与えていることになるからです。
異性なら尚のこと、邪心を抱いていることもあるかも知れません。
わたしの寺院の近くには公園がありますが、平等に子どもたちは遊んでいます。しかしボランティアと称して雑草など掃除をする高齢男性が出没しました。その高齢男性は平等感を大切にしていますが、子どもたちに「花火はしたらダメ」と叱ってました。すると子どもたちは公園に掲げるルール板を指差し、火元の管理をするならOKと記していることを指摘し、口喧嘩になりました。また「犬の散歩はダメ」と高齢男性は指摘されました。同じように掲示板には「フンの始末をしっかりしてください。」と記してあります。
皆、人は正しいことを行っていても、誰かには違う風に映ることがしばしばあります。仏教では「一水四見」と称し、相手にも正論があることから平等は、ときに異なる平等感を持ち合わせていることを。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
自分が普通と思うことも、相手もそれを持ち合わせているかはわからないですよね。
自分は人に強要していたつもりはありませんが‥
もしかしたら、そう捉えられていたかもしれませんね。
毅然とした態度をとることが、少し怖いのです。
不快な思いをさせることに申し訳なくなります。
でも怒りをあらわにすることもあるので、ちくはぐですね。
もう少し、考えてみようと思います。
いつも、ありがとうございます。