仏様はこんな私を許してくださいますか・・・?
私は過去に自傷をした事、友を馬鹿にした事などといった過ちをおかしてしまいました。今ではそのことについて反省し、何があっても自傷はしないようにしていますし、友に対して悪口を言ったりすることはありません。
しかし、別に現在でもある過ちをおかしてしまっています。虫の命を奪っていることです。
私は小さな虫でも恐ろしい、気持ち悪いと感じてしまい命を奪ってしまいます。
両親に頼んでできるだけ外に出してもらうようにしていますが、人間に害がある虫は簡単に殺してしまう。
そんな自分勝手な都合で虫の命を奪ってしまう私に腹が立ち、悲しくて涙がでます。虫たちだって、一生懸命に生きているから殺してはいけないとわかっているのに、気持ち悪いからなどといった理由で殺してしまう私が残酷だと感じています。
虫を殺してしまうたびに、心から泣いて謝ってはいます。
しかし謝るばかりで虫を殺さずにいるということはできません。
それだけではなく、私は過去に大変な過ちをおかしてしまいました。
正直にいいます。仏様を、裏切ってしまったのです。
9歳、10歳位の頃に家で犬を飼っていました。しかし理由があり犬を病院に手放すことになってしまいました。私は仏壇の、仏様の前で「私がしっかりお世話をしますからどうかあの子が戻ってきますように」と祈りました。
そして本当に戻ってきてくれたのです。しかし・・・、私はちっとも世話などしませんでした。
仏様に誓ったのに。裏切ってしまたのです。
結局犬は病院に引き取ってもらうことになりました。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、仏様のお心を傷つけてしまったと、大変馬鹿なことをしてしまったと自分を責めています。
勝手な都合で命を奪い過ちを繰り返し、幼かっといえども仏様を裏切り・・・。
死後、私は地獄におちて苦しむべきですよね・・・、でも、それでも、地獄におちたくないです・・・。何億年も釜の中で苦しみ、針の山を歩かせられるのが怖いです・・・。
結局自分が可愛い私に腹が立ち、苦しいです。
教えてください、お坊様。
仏様は、こんな残酷で自分勝手で最低な私を許し、愛してくださいますか・・・?
この先どのようにして生きていけばよいでしょうか?一生一人ぐらしでいるつもりですので、新しい命をこの世界に誕生させれこともなければ、虫を殺してしまうこともあるかもしれません・・・
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
虫とあなたの関係性をしれば殺さなくなる
(^<^)
お気持ちは良く分かります。見た目が生理的に受けつけないということはあるものです。
せっかく虫の命を大切に想う気持ちが芽生えたのですから、それを行為にすることです。
わたしは虫の概念を広ーく持っています。カビやウイルスも虫の一種、蟲(むし)と考えます。
大きな獣も、ムシの一種と捉えます。
ネコも犬もそうだと考えてみましょう。もちろん虫ではありませんが広い意味で命です。
命に区別、差別はありません。
この世には二つの海があります。一つは大海の海。海の中にはプランクトンなどの虫が沢山います。
もう一つは、陸という名の海。空気中に沢山の菌やカビ、大きな虫たちが泳いでいるのです。
わたしはそれらを総じて蟲(むし)と呼んでいます。そうすることである広い大きな総体が観えて来ます。
体の中にもビフィズス菌や納豆菌など沢山の菌がいます。成人ならば数パーセント、体重の数キロが菌の重さという説もあります。キモイでしょうか(^<^)。
でもその菌たちがいなければ私たちは生きていけません。見た目こそ美しい花だって、食べている野菜だって、バクテリアなどの微生物の存在があってこそ咲くことができるのです。
プランクトンを食べた魚をまた他の魚が食べてクジラがそれを食べクジラにも寄生する小さな虫がいるように、我々も他の命を頂戴しつつ深く関わりあっています。同じ海の中の兄弟なのです。生きていくためには食べる事が欠かせないので、しなければならない殺生だってあるのです。
だから食べられない虫たちは殺さずにそっと外に出してあげるようにしてあげてください。
虫たちが家に入ってこない工夫は、禅寺では、生飯(さば)といって食べ物を少量、鳥や虫たちに供養することで家の中に入って来ないようにします。セルフ・ムシコナーズ。
虫を殺してしまうのは虫が自分たちと密接にかかわりあっている自然界のサイクルを分かってあげていないのだけであると思います。
虫をよく見る事です。見た目が気持ち悪いのは彼らの弱さゆえ身を守る為です。他の動物たちから身を守り種を残すためには身を守る為の針や毒を持っているものもいます。自然界においては益虫、害虫という概念はありません。みんなただ、生きているだけです。同じ海の中で関わりあっていることを知れば殺さなくなります。
まずは、虫を殺さずになってください。地獄やらなにやらのお話しはその後に。
アングリマーラ
あやっち様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏様の広大かつ深大なる慈悲の御心は、いついかなる時でも私たちを見捨てることはありません。ただ、私たちの罪、過ち、悪業は、仏様が許す許さないの問題ではなく、自らの行い次第となります。
仏様の慈悲を根拠として、何でもかんでもが許されるとなれば、多大な弊害が生じることになってしまいます。それこそ、人を何人殺そうが、仏様がいずれ救って下さるから大丈夫だというような考え方を持ってしまうと大変危険なことになります。
直接に回答への引用は今回が初めてとなりますが、下記ページをご参照下さい。
「拙回答の基本的な前提となる考え方について」
http://www.hide.vc/h1.html
小前提
5、無際限・無限定に如来の慈悲を根拠として引用しての楽観的な救済論の否定。
6、仏教を不要化させかねない楽観的な現実全面肯定の理論の否定。
・・
例えどのような過ち、罪を犯そうとも、重要となるのは、それをしっかりと悔い改めて、反省、慚愧、懺悔した上にて、智慧(空の理解)と福徳(善徳行・慈悲行・利他行)の二資糧の集積に努めることによって、悪業、煩悩、無明の対治、排撃を目指していくこととなります。このことにつきましては、下記の拙回答をご参照下さいませ。
問い「幸せでも良いのでしょうか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008050052.html
お釈迦様の時代、千人殺して千人分の指を首飾りとすれば修行が完成するという奸計に落ちたアングリマーラという殺人鬼が現れ、九百九十九人の人を殺し、あと一人となった時に出遭ったのが実の母であり、手をかけようとした時に、お釈迦様が現れられて、アングリマーラを諭し、改心させて、その後、弟子入りまでお認めになられます。アングリマーラは苦難の修行を経て、やがて阿羅漢果という悟りを得ます。お釈迦様は、確かに仏道を歩むことは許されたものの、その悪業を許されたわけではなくて、あくまでもアングリマーラが悟れたのは自身の修行による結果でございます。
私たちも、過ちや罪を繰り返してしまったとしても、慚愧、懺悔し、尚一層に善徳行に努め励むことが大切なことになるのではないかと存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お坊様がおっしゃるように虫を殺さないよう心がけます。
もっと虫の気持ちなど考えて行動してみます。
ただ、やっぱりいきなり自分を変える事はできないかもしれませんので、少しずつ努力してみます。
アドバイスを頂いたように、虫をみかけたらお菓子などを少量与えて虫と友達になれるようにもしてみます。
まだ少し不安ではありますが、がんばります!
ありがとうございました。
危ない考えを捨てることが、まず大事なのでありますね。
過去の行いをしっかりと反省し、懺悔を行って、善行に励んで頑張ります!
2度と同じ過ちをしてしまわぬように・・・、という事は、まだ今の私にとって難しいことですが、少しずつ、少しずつ努力をしていきます。
前提文や、過去のご回答など載せて頂き感謝致します。少々難しいと感じた部分もありましたが、これからの自分をどう変えていくか参考にさせていただきます。
ありがとうございました。