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地獄の衆生と人間界の救いに違いがある?

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六道のうち人間界が唯一仏教を聞き救われる世界のだと学びましたがチャットGDPに聞くと地獄に堕ちても阿弥陀仏様の救いは届く(地蔵菩薩本願経より)と救済の可能性を示唆する内容を示してました。
浄土真宗の主流となる教えは生きてる内に救われるというものですが救いに違いがあるという事なのでしょうか?
例えば地獄の衆生を救うのはあくまでも地獄から助け出すという意味で輪廻から解脱する事ではない、つまり地獄からは救うけど後の救いは人間として産まれてきたらそのご縁で是非仏教を聞いて救われてくださいって意味なのか?それとも人間界と同じ様に後生で浄土に行くのか?どっちですか?
それともそもそも阿弥陀仏様は地獄まで救済に来ないとかですか?

2025年10月2日 12:13
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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

地獄は別の世界か

文字を正確に読もうとするのは大事なのですが、大枠を感性で捉えようとする読み方も大事なのかな、と思います

地獄“界”、人間“界”と申しますと、まるで星が異なるように、別の大地に生きてるような感覚で読んでしまいがちですが、地獄も餓鬼も人間も“場所自体は同じ”です
現代的に言えば“精神状態の話”としたほうが腑に落ちるかもしれません

恋に溺れた人間に『あの彼とは別れたほうがいいよ』と言っても聞く耳を持たないように、地獄の世界で生きてる人には救いの教えも耳に届きません。
なぜなら“聞く耳を持ってないから”であって、隣にいる人間界の人は同じ教えで救われます

阿弥陀仏の教えはその“耳を閉じた地獄に生きる人”にも聞こえるという解釈でいかがでしょうか

2025年10月3日 0:19
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有り難し
おきもち

日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

光明、聞名

浄土宗大辞典のウェブ版に以下の記事があります。
阿弥陀仏の光明による救いに関するすること
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9C%9F%E8%91%AC%E3%81%AE%E6%96%87
と、阿弥陀仏の名を聞いて往生し、不退転の境地に導かれることについてです。
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%81%9E%E5%90%8D%E5%BE%97%E7%9B%8A%E5%81%88
なお、極楽浄土には地獄・餓鬼・畜生の三悪道(三種類の生き物)がいないのです。
つまり、極楽浄土に往生できれば天(阿修羅を含む?)か人間のどちらかに成れるということでしょう。
いずれにせよ、人間として生まれて仏教に出会えた私達は、念仏を称(とな)えて往生極楽を願うことができます。
地獄の者にも仏道に勤しむ機会があるのかどうかわかりませんが、地獄においても、阿弥陀仏の光明に触れたり、阿弥陀仏の名前を聞くことができれば救われる、それが阿弥陀仏の本願であるし、阿弥陀仏を信仰する仏教徒が大いに共感するところの、仏教の大慈悲の精神だと思います。
阿弥陀仏を信じる人は、まずは念仏して自分の救いが確定したことを喜び、次に、「地獄を含む一切衆生もみんなもれなく救われたら好いのにな」と、他者の救いにも視線を向けるわけです。

2025年10月3日 7:06
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

得られる「救い」そのものに違いがあるわけではない

往生は解脱と完全にイコールではありません。「往って生ずる」という字義からすれば、阿弥陀如来が主宰する極楽浄土に転生して、そこで解脱を完成させるということではないでしょうか。往生の必要条件として聞法と念仏があるとすれば、たしかに人間道に人身を得て生まれない限り往生はできません。
後世でどのような形でどの道に生まれるかは、あくまで個々の生命の業によります。人間道に生まれたからといって必ず後世は浄土に道が開けているとは限りません。逆に人間道以外の衆生が前前世、前前前世、前前前前世からの宿業から今世の業の結果として人間道に転生する可能性は当然あります。
ポイントは、人間道に人身を得て生まれること自体は別に「救い」ではないということです。
人間→往生のコースに入らせてもらうことが阿弥陀如来の「救い」であるとすれば、六道のそれぞれの衆生はいずれも最終的に同じコースに入ることで解脱を完成させる訳ですから、遅かれ早かれ得られる「救い」そのものに違いがあるわけではないといえるのではないでしょうか。

2025年10月2日 13:42
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。

何をもって地獄と言い、何をもって人間界というか。

天上 人間 修羅 餓鬼 畜生 地獄界
この心に、幸福感や満足があってもそこからより高い人間性や精神性に向かわない心を天上界という。

心に、勝ち負け、損得、優劣、美醜、善悪、苦楽の二面、相対観念や理屈にしばられてそこから脱することのできない心を人間界という。

怒りや憎しみ、対立意識、ヘイト、敵対意識のある心は修羅界なり。

人として人の道に外れる者、悪事を為すもの、神仏などおらんと、天地自然を軽んじ自己中心的な生き方、エゴイズムにとらわれる者は餓鬼界なり。

忘八者、テロリスト、独裁、人権弾圧、猟奇的な犯罪、人を人とも思わぬ所業をなす者は畜生界と言わざるを得ない。

そして、そういう悪意に踏みにじられる者、虐げられるもの、迷いや苦しみの中に居る者はみな地獄界と呼ばざるを得ない。

つまり、六道とはまず、この世にこそあるということです。死後の世界の六道や他人様の六道といっても、そこを思うもわが心。
その 6 つの世界を無限ループして、菩提心、信心がうまれずモノや金銭、栄誉ばかりを求め続けて「我がことばかり」を優先して大事にやろうとする世界こそが無限の輪廻、迷いの心でしょう。
だからこそ、仏教では発菩提心を説く。菩提心、信仰心の起こらない心は我見、自我、自己愛、自己保身、エゴイズムを増長させてしまうだけだからです。
そして、その六道とはみなこの一心。地獄も天上界もみな一心なのです。人間界もこの心こそがつくる。
主義思想や、宗派の隔ても、元をたどれば皆この一心。
仏を描き鬼を描くも同じ筆。
弥陀を念じて救われる心も、信心起こらずエゴの魔界に赴く心も皆同じわが心。
だからこそ、真に救うべきは地獄や人間界だけを限定することではなく、この我が無限に輪廻し続ける一心をこそ救うのが阿弥陀仏、仏のすくいなのです。
Chat❝GPT❞がそれなりの回答をくれても、仏の真の救いのある回答は出ません。ならば、いずれはそこにも救いが必要でしょう。
救いを求める、答えを求めるその心はどこかと言えば、あなたのその心、一心でございましょう。
その救いの在りよう、救われの在り方を追求してみましょう。
納得のいく回答、答えが理論的にあれば救われるのか?いいや、それは理解、ガッテン、納得というものであり、救いではない。
救いとは、人間が人間界の思考、概念、理屈からも救われることです。
南 無 阿弥陀仏。

2025年10月5日 9:21
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有り難し
おきもち

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質問者からのお礼

なるほど。
回答ありがとうございます。
確かに仏法は聴聞に極まると言いますしね。
冷静に考えてみたら苦しみが1番強いとされる地獄に堕ちたら仏教なんて聞いてる暇ないでしょと思いました。
頭の悪い質問してしまいました。
前にも地獄を軽視する様な質問をしてしまった記憶があります。
失念しておりました。貴重なお時間を奪ってしまい大変申し訳ございませんでした。

救いに違いはないけれども唯一違いがあるとするならば遅い(未来世以降)か早い(今世)かだけ。
絶対に救われるのだから無理に不安な気持ちになる事はないという優しさの様な意味を感じとりました。
※言葉を誠に勝手ながら自己都合解釈しちゃいました。

けいじょう様、回答ありがとうございます。
精神状態と聞いてこちらで以前私が地獄の獄卒になるにはどうしたら良いか?という愚かな質問をした時お坊さんに唯識という考え方を教えて頂いた事を思い出しました。
住む世界が人間界と同じであれど精神状態、所謂心が有頂天(天国)の人がいたり地獄の人が居たり精神状態が未熟な人を餓鬼と表現したりと確かに場所自体は同じと捉える事もできますね。

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