暴言吐くしかなくなった
色々あって容姿が悪くなり、耐えられなくて、もう引きこもって1日中暴言を吐いています。(一人でこっそり吐いてるので通報されたり誰かを傷つけたりはしていません)
もう幸せそうな他人を見ると憎いし、何の楽しみもなくなったし、悔しくて屈辱でどこにも行きたくありません。
よく、いつかは年取るとか言われますが、まだ若いんですよ?
苦痛です。
見た目が悪いと悪いことをよく引き寄せてしまいます。性格のせいかもしりませんが知りません。
このまま一生暴言吐いてみじめに生きてくんでしょうかね?
お坊さんからの回答 3件
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顔は変わっていきます
ご相談を拝読させて頂きました。
お辛いですね。
私も若い頃は父に姉と比べられて、お前の容姿はアイロンみたいだとか、いろいろと言われていましたし、小学校でもイジメられていました。だから少しだけ辛さは理解できると思います。
現在20代であればお顔はご両親からの遺伝子で形作られているのが大きいと思います。また、後から事故や病気などでお顔に影響があったのかもしれませんね。
私は育つ段階で父はDV母はニグレクトでしたが、そんな母でしたが私が容姿に悩んでいたら、言ってくれた一言があります。
『若いうちの容姿は、親の遺伝や環境からもらった顔だよ。でもね、だんだんと変わって40歳を過ぎるころには、“自分の本当の顔“ になるんだよ。
自分の心が顔に出てくるのさ。今は自分の顔を親や環境のせいに出来るけどね、40歳になる頃には、どんな顔であっても自分の責任なんだよ。
だからね、ふてくされてないで心を綺麗にしていきなさい。どんなに綺麗な人でも40過ぎる頃には醜く顔が歪む人もいるんだよ。、、、本性を表しちゃうんだね。
だからね、歳をとってだんだん綺麗になってきたねって言われた方がいいだろ?
今はお前の顔は環境も含めてお父さんやお母さんの責任なんだ、だからそれでイジメられてたらごめんよ。
でもね、お前の本当の顔はお前がお前の人生で作っていくもんなんだ。
だから、ひねくれたり、意固地にならないで、将来の自分の顔が美しくなるように生きていくんだよ!』
って言われて、妙に心に響き納得したのを覚えています。
あの言葉は母に観音さまが降りてきて喋らせたのかも…なんて今は思ったりしています。
私は来月66歳になります。
母に言われた言葉をちょこっと気をつけて生きてきました。
今は自分自身が容姿は気にならなくなりましたが、醜いと言われることも30歳過ぎてからは無くなりました。
貴女も本当のお顔を少しずつ作ることに、ちょびっとだけ気持ちを向けて、心を見つめてみませんか?
どこかであきらめられる
事故で障害を負ってしまった人でも、多くの場合は障害を受け入れる(元には戻らないと諦める)タイミングが来ます。
諦め(あきらめ)の諦という文字は、仏教では真理・真実という意味です。
あきらめは明らめに通じ、夢や希望を断念する暗いことではなく、真実を受け入れてスッキリ明るい気分になることです。
身体は不浄である(執着に値しない肉塊だ)、
受(眼耳鼻舌身意に入力される刺激)は強弱あれど本質は全て苦痛だ、
心(思考や感情)は無常(瞬間ごとに生じては滅しており瞬間ごとに新しい)だ、
法(頭で考えた概念や認識)は無我(固定の実体がない夢や幻みたいなもの、空)だと、
身・受・心・法が不浄・苦・無常・無我であることを意識するようにすると、明らめが早く訪れるかもしれませんね。
健やかに充実して生きてくださいね
拝読させて頂きました。
あなたが色々辛いことがあって引きこもり暴言を吐いているのですね。詳細なあなたのことはわからないですが、あなたのそのお気持ち心よりお察しします。
あなたが人と自分を見比べてみると羨んだり妬ましく思ったり、恨んだり憎んでしまうお気持ちもわからないわけではありませんが、やはりその様な気持ちをずっと抱えていると自分自身のことをおとしめていってしまうのではないかと感じます。仕方がないのかもしれないけどやはりその様な気持ちばかりでは、自分自身をおとしめてしまうことに行き着いてしまいますからね。とてももったいないことです。
容姿ばかりを重視してしまいますと人の本質は見えていませんし、真実の心も見えなくなってしまいます。
なかなか直ぐにわからないですけれども、コミュニケーションを取りながらしっかりと人の話しを受け止めていきましょう。一期一会という言葉もある通り落ち着いてゆっくりと一人一人に向き合っていきましょう。
あなたがこれからも人とのご縁を大切になさり、お互いに成長なさっていくことできます様に心からお祈りさせて頂きます。至心合掌
質問者からのお礼
参考になりました。