疑蓋が外れません
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
お坊さんからの回答 2件
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お見捨てにならない。いのちが尽きるまでご一緒してくださる
阿弥陀さまのお救いは、今ここに すでに届いていますよ。臨終の時に決まるのではなく、お念仏申すあなたは、阿弥陀さまの願いの中なのです。
どんな者も、どんないのちも、お見捨てにならない。
それでも不安になると、疑ってしまう。だから、目が離せないと、いつでも どこでも、そばにいてくださるのです。私のいのちが尽きるまでご一緒してくださるのです。
お念仏は、どこまでもあたたかい。阿弥陀さまが私を喚んでくださるのです。頼れ、そのまま来いと。必ず救うぞと。
こうして文字だけでなく、あなたのそばで何度でも伝えてあげるわ。一緒にお念仏申しましょう。
過去にトラウマがあるのですね。傷つくあなたを、阿弥陀さまは放っておかないわ。
オンラインで直接話すと、安心に繋がるかもしれませんね。
信じるということを考えましょう
「疑蓋」などという難しいコトバをよく御存知ですね。親鸞さまにおいては「疑い」というのは、自力心のことなのです。佛法との出遇いは「聞く」事から始まります。お勉強ではないので、誰かの「なまんだぶ」という声が耳に入る。。様々な方のために、「文字本尊」や仏像という視覚・触覚でのお姿にもなります。中でも音声を中心にしているのが浄土真宗ですね。
「あなたによりそい、あなたを我が手元のサトリの世界に引き取ってブッダにする」願いは完成したので、今ここの私に既に与えたと、仏さまは仰っています。 そうしますと、こちらが信じる信じないという「判断」「思考」「認識理解」での問題自体が、筋違いの話となります。
私には90歳になる母親がおります。ところが、その人を母なのかと疑ったこともまた、確信して母としたこともありません。子どものころ悪さをしたとき「あんたは橋の下で拾ってきた子やから、そんなにいうこときかないなら、すてにいこか?」と脅されて大泣きした経験があります。DNA検査をすれば、それは本当か否かはわかるでしょう。でも、調べない。なぜ?
生まれたときに「母」だと認識してません。覚えがない。ただ護られた記憶に、抱かれたときのあたたかさ、生きるもととなった母乳を口にふくんだときの味と感触、肌の匂い、それら全てが渾然一体となって、「安心」して身を委ねてきたのです。気がつくと我が子であると、親に先に名前をよばれておりました。それら全体が「ママ」「かあさん」というコトバに結びついて、今です。
人間の親は、だからといって、いつもベストではなくワーストになることもありますけどね。でも、ブッダはちがいます。
あなたを抱かずにはおれない、やるせないお心の仏さまがいらっしゃる。いのちをまるごと引き受けて包んでおられる仏さまがいらっしゃる。この愚さを抱え、現実社会では劣等生であるかもしれない、また無意識に他を傷つけ罪を重ねているかもしれない、私を、まるごと「仏子」とみなされ、共にあるよと顕れたまわれる。
これらが、経典に説かれている内容であり、親鸞さまが人生全てを支えられ未来がひらかれたと、慶ばれた南無阿弥陀仏ですので、ただただ聞くばかりです。その次は要りません。受け取りはいらないので、称名すれば自分で聞こえます。「ああ如来さまがごいっしょだ」と感じて下さい。
質問者からのお礼
田中様、お返事ありがとうございます。
田中様の一言一言に真摯な思いが詰まっていて有難い限りです。最初お返事を見た時、涙が止まりませんでした。しかしお恥ずかしながら、未だに見返すたびに何もかも分からなくなってしまう自分がいます。
もしよろしければまた話を聞いて下さると幸いです。
釈慶典様、お返事ありがとうございます。お言葉が身に染みました。私が疑ってしまっても、阿弥陀様はお念仏ではたらきかけて下さっているのですね。これからも不安になった際に、沢山読み返させていただいて、お念仏したいと思いました。ありがとうございました。