母の昔の振る舞いがフラッシュバックする
今から20年ほど前、私が小学生の時に両親は離婚しており、親権は父親に渡りました。
母親が親権を取ることが圧倒的に多いにも関わらずそうなった時点で、私の母がいかに問題のある存在かということが伝わるかと思います。
最近、人づてに母親が警察機関の世話になったという話を聞き、あらためてとんでもない人を母に持ったのだということを再認識しました。
私は長い時間をかけて自分があの母親から生まれたことを受け入れましたが、前述の出来事以来、私が子どもの頃に母が起こしたことを思い出しては苦しくなります。
自分がされたことは到底公の場で言えないようなものも多いですが、そちらは今更ですので寝て起きたら忘れてしまいます。
現在は特に、他人が迷惑を被ったであろうことを思い出して苦しくなります。
ここに書けるような例を出すと、母のパート先の大学生くらいのお姉さんに私と弟の子守を押し付けていたこと。その方とおそらくはその方の彼氏さんと一緒にカラオケに行きました。当時私は母の仕事場に顔を出していたため私もその方になついていましたが、子供心にこの状況はおかしいと思ったことを覚えています。当然母は謝礼も渡していないと思います。
同じようなことを同級生の家庭にもしており、泊めてもらったり兄弟揃って夕食をいただくことはしょっちゅうでした。
他にも上げればキリがないほどに、面識のあるなしに関わらず迷惑行為、タカリ行為が多数ありました。
当時父は遠方に単身赴任しており、状況をよく知らなかったと思います。
今になって、もっと父を頼るべきだったと自省したり、そもそも自分と弟さえいなければ少なくともあの優しい人たちに迷惑をかけることはなかったのではと考えてしまいます。
そして最近になって冒頭に書いた母の状況を知りました。本当に恥ずかしく情けないです。
事情をよく知らない人にあまり母のことが好きではないことを話すと、母にも事情があっただの、お腹を痛めて生んでくれたのだからだの、心の底ではあなたのことを愛していると思うなど、本当にうんざりします。
私のことを愛しているならまっとうに生きるはずだし、そうしてほしいです。
私の脳のリソースを母に関することに少しも割きたくないのに、どうしても思い出しては苦しいです。
慰めの言葉をいただきたいです。
お坊さんからの回答 2件
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少しも割きたくない、に近づける
こんばんは。周りの方の「あなたは気づいてないかもしれないけれど…」については、私も可能性ゼロとは思いませんが、少なくともあなたにとって受け入れ難いということは分かりました。
そうであるならば、「少しも割きたくない=ゼロにしたい」という目標を下げて、「少しでも減らしたい」にしてはどうでしょうか。
タイトルにある「フラッシュバック」というのはパッと思い出すことですから、カミナリがなったようなものです。それについて「あーこわいこわい。そういえばあの時も…」となっているのでしょうけれど、「そういえば…」以下、連想を止めることです。「うわ、びっくりした。さてテレビテレビ…」のように、切り替えることです。
一瞬の感情やパッとした思い出し自体を止めるのではなく、「あー、まだワタシ気にしてるんだなー」と、他人を観察するようにその瞬間を「外から眺める」。「あの時は」と過去を紐解くのではなく、「今は離れて良かったな」と、今の方に目を向ける。
そういう練習をしていくと、フラッシュバック自体は止まらなくても、それを反芻する時間を減らすことができます。この方向で自分を整えては如何でしょうか。
「母にも事情があった…」は、受け入れられれば解消に向かう可能性はありますが、それは今目指せる状態ではないでしょう?
なので、まずは「そのことに割くリソースを減らす、反芻している時間を減らす」ことを経過点として目指しては?とお勧めします。
こういった第三者からの言葉さえ、あなたには「母を庇っている!私の味方になってくれない!」と感じるかもしれません。けれど、「とりあえずの目標として、少し下げてみよっか」を受け入れられるならば、変化のキッカケにはなると思います。
妄想雑念(思考)を展開させない
例えば花粉症の人が鼻をかむことに費やす時間は無駄と言えば無駄ですが、体質だから仕方ないのです。
フラッシュバックも、もはや体質であり仕方ないでしょう。
ただし、花粉症の人は鼻水が出る度に怒ったり嘆いたり自己否定したりといった妄想雑念(思考)を発展させず、鼻をかんだらサッと日常生活に意識を帰すでしょう。
一方、フラッシュバックのある人は、そのフラッシュバックをきっかけに妄想雑念を展開させて、例えば1秒間のフラッシュバックに対して妄想雑念を1分間とか付け加えてしまうでしょう。
その理由は、私達には自我への執着という煩悩があり、フラッシュバックに伴い自己防衛(自我を守る)の思考をしたくなる(自我の危機を放っておけない)からかもしれません。
仏教では、六根(眼耳鼻舌身意)や六境(色声香味触法)の現象を俯瞰して見て、身体は不浄だ(アレルギーやフラッシュバックを起こすポンコツな肉塊だ)、心は無常だ(瞬間ごとに浮かんで消えて新しい心に交代している)、法(頭で考えた概念)は無我だ(実体のない架空の幻だ)と気づくようにします。
私(自分)というものすら、新陳代謝する細胞たちの群に仮に名付けられた法(概念)であり無我なのです。
ですから、このポンコツ肉体が起こすフラッシュバックや、そもそも架空である「自分の」母、に関する妄想雑念をできるだけ短時間でカットするように「気づき」というティッシュを投入し続けるしかないのでしょうね。
「来世では毒親に当たりませんように、極楽浄土に往生できるように」と願って、
南無阿弥陀仏、なむあみだぶなむあみだぶ
と念仏を「気づき」の代わりに挿入しても良いと思います。
質問者からのお礼
お二方の回答を見て、改めて自分の心を見つめる機会をいただけたと思います。
私は、おそらくですが、母に対する憤りや、それに伴う苦しみをなんとかしたかったのではなく、私が存在したことで結果的に迷惑をかけた人たちに謝りたいという気持ちが今回の質問に至ったのだと思います。
面識のある方から面識のない方まで、母のせいで、私がいたばかりに、本当に申し訳ないことをしてしまいました。
すべての人がそれを覚えているか、忘れているかはわかりませんが、少なくとも自分の気持ちが知れてよかったと思います。
人様に迷惑をかけてしまった分、誰かに優しくすることで、自分の人生を豊かにしていきたいと思います。
ありがとうございました。