ひどい事件ばかりですが回答受付中
人殺しの弁護をするつもりは少しもありませんし、自分の人生を終わらせたいからと恨みもない他人を殺害する心理は到底理解できません。しかし、犯人と同じように今まさに追い詰められている人が山ほどいると思います。弱者には手を差し伸べない日本の教育や社会構造もあるかと思いますが、自己責任とか、社会のせいにするなとか、日本に生まれただけで幸運とか言ってる人もたまたま順調だっただけで、本当に誰でも紙一重だと思います。怖いとか許せないと言っている人達も(それは当然そうです。)そういう人を生み出してしまった社会の一部なのに、まるで自分とは別世界の生き物のような言い様がとても偽善的で気持ち悪いです。そのように追い詰められてしまうような人を生み出さない事が重要だと思いますが永遠に無理なのでしょうね。何に対して頭に血が昇っているのか自分でもよくわかりません。事件や犯人そのものではなくてこの国というか世の中にでしょうか。どうもすみません。
嫌な気分になることは全て煩悩だと思います。
お坊さんからの回答 4件
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いいとこ取りはできない
いま私がこの答えを書いてるスマホ
これを作った人はまあ、掛け値なしの“天才”でしょう
電気を作った人、文字を作った人、仏教を作った人
みんな素晴らしく優れた人です
その“優れた人”の恩恵を受けるということは、その“優れた人”に富を偏らせるという事です
社会から“優れた人”を出すから社会は快適になるし、便利になるし、豊かになります
そして、“優れた人”はみんなを豊かにした分、恵まれた生活を送るべきだと思います
でも一方で、優れた人を豊かにした分、“劣った人”は恵まれない生活を送ることになり、集まりに集まった皺寄せが人を追い詰めることももちろんあるでしょう
要は、この“皺”をどこに寄せるかという話なのです
今は機械とか石油に寄せてるので、昔みたいに奴隷として皺寄せを食う“人”は少なくなりましたね
でも、そういうことですよ
すべての便利を投げ打って、“優れた人”のおかげでギリギリ生きてる人たちも全部殺めて、自分一人で生きられる人同士だけが、自分のことを自分でする社会
これが“追い詰められる人を出さない社会”ですよ
おっしゃるとおりですね
拝読させて頂きました。
あなたが思っていること日本社会の中でお感じなさっていることとてもわかるように感じます。お気持ちを心よりお察しします。
あなたがそう思われるように今も生きることに大変な思いをなさっている方々・誰も支えてくれずに困っている方々・生きずらく感じて苦しんでいる方々は沢山いらっしゃると思います。
あなたがおっしゃるように支援やつながりが必要な方々になかなか支援も届いていないような状況はこの日本社会にも世界にも蔓延していると思います。
当然ながら国家も自治体や団体や会社はその様な社会的に困っている方々を支援していく責務というか義務はあります。ですからより一層皆さんが安心して生きることできる権利を保障していくように法的な整備や制度を進めていく必要があります。それにはやはり多くの声を発して政治参加していく必要があります。
また外国人の方々ともつながりながら共に助け合って生きていくように私達自ら心掛けていくことが大事ですし、様々な支援を求める方々に少しずつでも関わりながらサポートできる地域社会を作っていくことがとても大切だと思います。
それは私達一人一人が日々心掛けて少しずつでも実行していくことができると私は考えています。
最近の世界や日本社会を報道で見ていると「自分ファースト」になっていっています。本当に貧しいことだと思います。
「今だけ・カネだけ・自分だけ」ではなく、自分がいるのは多くの方々とのご縁に恵まれているからであり、誰もが助け合い支え合って分かち合って生きているのですからね。
相田みつをさんの言葉に「奪い合えば足らず、分け合えば余る」というお言葉があります。
自分だけのことだけでなく、みんなで分かち合っていけば充分に豊かに生きていくことができると思います。
「足るを知る者は富む」という言葉があります。お互いを思いやり分かち合い心が満たされていくことで本当に豊かな人生を生きることができるでしょう。
あなたがこれからも多くの方々とお互いのことを心から尊重し合い思いやり、様々なことを分かち合い助け合って幸せに生きることできますように、心身ともに豊かな人生を生き抜いていかれます様に切に祈っております。至心合掌
社会の闇を前にしたとき─僧侶の視点からの応答
ご相談の内容は、事件そのものというより「なぜこうした人が生まれるのか」「社会全体の責任はないのか」という怒りや虚しさに対する問いだと受け止めました。仏教的な観点からお答えします。
1. 「誰でも紙一重」という視点
仏教では「縁起」といい、人は自分ひとりの力だけで存在しているのではなく、無数の縁に支えられて生きていると説きます。したがって、誰かが追い詰められて事件を起こしたとき、「自分とは関係ない」と切り離すことはできません。あなたが感じられている「誰でも紙一重」という感覚は、まさに縁起を肌で感じ取っている証拠です。
2. 怒りの正体
「何に対して頭に血が昇っているのか分からない」という思いも自然です。仏教では、怒りは「無明(ものごとの本質が見えない状態)」から生じるとされます。事件の背後にある社会の仕組み、教育、家庭環境─複雑な因縁が見えないからこそ「こんな世の中でいいのか」という怒りが湧き上がるのです。これは悪いことではなく、「苦しむ人を生み出さない世界であってほしい」という慈悲の心が裏返しに表れているとも言えます。
3. 「偽善」と感じる気持ち
「許せない」「怖い」と声をあげる人を偽善的だと感じられたのも、あなたが本当に社会全体を自分事として受け止めているからでしょう。仏教では「自他不二(じたふに)」と説かれます。自分と他者は決して切り離せない存在であり、誰かを責めることは自分を責めることでもある。その感覚が鋭いからこそ、他人の反応に虚しさを覚えるのだと思います。
4. できること
「永遠に無理なのでは」と思えるときでも、仏教は小さな一歩を大切にします。
まずは「自分のまわりの追い詰められた人」に心を寄せる
批判や怒りの言葉を少しでも「問い」に変える(例:「なぜこの人はそこまで孤立したのか?」)
怒りを感じたら、それを「社会を良くしたい願いの芽」と捉え直す
まとめ
あなたの中にある怒りは、ただの憤りではなく「苦しむ人を生み出さない世界でありたい」という願いの表れです。その願いを否定せず、むしろ慈悲の力として育てていくことが、仏教的な生き方の一つです。社会全体を変えることは難しくても、自分の言葉や行動を通じて「紙一重で追い詰められている誰か」に寄り添うことはできます。
合掌
私達には煩悩があるので
私達には欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩があり、それが悩み苦しみの原因となります。
江戸時代にはお殿様でも食べられなかったスイーツを、コンビニで買える恵まれた現在の日本。
でも、例えばプライドの煩悩のせいで、私達は自分の価値を気にしたり、他人と比較して落ち込んだり怒ったりしてしまいます。
ですから、どんなに素晴らしい社会システムを構築しても、個人個人の心に煩悩がある限り、つまりは個人個人が悟り(成仏)に至らない限り、個人個人の悩み苦しみストレスも尽きないのです。
仏教で説かれている悩み苦しみの原因である煩悩を上手く制御するコツを一人ひとりが学んでいただくことが、悩み苦しみの軽減につながるのではないかと私は思います。
社会を変えることは一朝一夕ではできませんが、自分の悩み苦しみにチョチョイと手を加えることは、仏教をちょっとつまみ食いするだけでも、早ければ1時間で人生の景色が変わる可能性もあります。
それくらい、仏教には素晴らしい可能性があると私は考えております。