身近な人への愛情=煩悩 ??
仏教では、身近な人(例えば妻や子)への愛情について、どのように考えているのでしょうか。
例えばキリスト教ですと、配偶者への愛や子への愛を大事なものとして、信仰の中に上手く位置づけているように思います。
一方で、仏教ですと、「お釈迦さまが妻や子を捨てて出家した」というエピソードがあるためか、身近な人への愛情も「煩悩」のうちで、振り払うべきものとしているようなイメージが、何となくあるような気がします。
実際のところ、仏教では身近な人への愛情、慈しみや哀れみの心について、どのように捉えているのでしょうか。
教えていただけるとありがたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
出家して得た答えは「社会性」でした
きた3さま、初めまして赤澤貞槙と申します。ご質問についてお答えさせていただきます。
仏教でもキリスト教と同じように「配偶者への愛や子への愛を大事なものとして、信仰の中に上手く位置づけて」おります。ただ表現が異なるだけです。
仏教では「すべてのものに仏の種が宿っている」と説きます。そして僧侶の合掌する先は、この「どのような方にでもお持ちのほとけの種」に敬いの気持ちを示すジェスチャーとなります。
あなたのココロの中に植え付けられている仏の種を拝みますという具合ですね。
確かにお釈迦さまが妻や子を捨てて出家したと申しますと、振り払ったイメージを持ちますがお釈迦様が出家をされ、得たサトリは「社会性」でした。
人や自然に敬意を払い、成仏の種が宿っていると礼拝する。なので仏教では身近な人への愛情、慈しみや哀れみの心についてとても大事なものとして捉えてますよ。
あらゆる一切衆生への平等の慈悲の心が大切となります。
きた3 様
仏教ではあらゆる一切衆生への平等の慈しみの心を説くため、特定の例えば、身近な人、家族・親族や友人・仲間たちなどだけへの偏りのある愛情というものは、煩悩事(例えば、身近な人同士における独善的な面が強まること、身近な人だけが良ければいい、自分たちだけが助かればいいなどの考え方、自分たちの貪りや自分たちの満足・都合にとって嫌忌することへの激しい怒りなど・・)とも結びつき易くあり、負の執着、つまり愛執として退けることが望まれるものになると考えております。
もちろん、身近な者にさえ愛情を持てない者が、全ての者たちに愛情を持てるのかどうかとなりますと、そこはやはり疑問となりますでしょう。そのため、まずは、自分にとって身近な者たちから愛情を持つことから、その愛情を仏教での慈しみの心として広げてゆき、それをやがては全ての者たちへの慈悲の心へと広げていくことが仏教において大切となって参ります。
この慈悲の心の滋養に関しては、下記拙論の内容を少しくは参照して頂ければと存じております。
「菩提心論」
http://t.co/aSBtLQQI
例えば、きた3様は、自分の母親や身近な者に対する愛情と同じように地面を歩いている一匹の蟻に対してでさえも愛情をかけて同じく接することができますでしょうか?
なかなか難しいのはまだまだ凡夫である拙生ももちろん同じであります。
しかし、このように特定の者たち、例えば特定の者たちの範囲を大きく広げて全ての人間・人類として考えるとしても、地球という自然環境・生態系の様々な関係性の中で生きていくことができ、生かされている私たちは、人間・人類だけへ向けた愛情だけで、他の生き物たちのことを全く顧みずにいると、自分たちの満足や都合を求めることを優先させてしまい、他の生き物たちを無碍にも傷つけ殺してゆき、自然・生態系を破壊し、暴利を貪った結果、ここまで地球環境が悪くなり、挙げ句の果てに自分たちの首を絞めることになってしまっているわけでもあります。
何とか、あらゆる一切衆生に対しての平等の慈悲の心を滋養し、常に留めおくためにも、確かなる「菩提心」を起こすことが必要であると考えております。きた3様も是非この機会に「菩提心」についてお考え頂けましたらと存じております。
合掌