在家の戒律について
私は在家ながら仏教信仰しているのですが、『十善戒』の項目一つずを毎日繰り返し意識し生活(実践)に励んでおります。とある方より『在家のものが戒律を守れるはずがない。』というご意見を頂きました。確かに在家に関わるすべての戒律を完全に守り切るのは難しいのかもしれません。とは言え、その戒律を守ろうと1段ずつ階段をあがるように継続することもまた大切な行いではないかと考えております。ですが、お恥ずかしながら少し自信を失ってしまいました。ここでお伺いしたいのですが、在家の人間が戒律に少しでも触れ、意識し生活する事は無益なのか否か。完全に守らなければ仏道を歩めないのか。アドバイス頂けますと幸いです。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人間のままならない不確かさを自覚する先に仏様の救いが届く安心
意識した生活(実践)に励んでおおられるのですね。多くの人は、社会の中で生活をしながら信仰をする在家でありましょう。どの立場であっても、信仰する道・目指す道に間違いはないのでしょう。
「在家のものが戒律を守れるはずがない」と言うよりは、人間には守れるはずがないという方が近いでしょうね。それは、実践していけば、見えてくるはずです。
完全に守らなければ仏道を歩めないのか言われたら、自力では難しいものです。だから、仏様をお頼りするのです。仏様のお導きを聞いていくことなのですよ。
宗旨により勧める実践行には違いがありますが、あなたが生活に意識して取り組んでおられるお気持ち、そこに向かわせてくださった仏様のお導きがあってのこと。だからこそ、無益なはずがないのです。
他の先生方が回答で仰られているように、あなたが自信を失うという人間のままならない不確かさの身を自覚する先に、仏様の救いが届く確かな安心が見えてくるのではないでしょうか。
信仰心をお大切に。合掌
自らを律しようとする日々の努力にこそ、大きな意義があるのです
ご相談ありがとうございます。在家でありながら「十善戒」を毎日意識し、生活の中で実践しようと努められているお姿は、大変尊く、素晴らしい心がけであると感銘を受けました。
「在家の者が戒律を守れるはずがない」というお言葉に、ご自身の歩みへの自信を揺るがしてしまわれたお気持ち、お察しいたします。真摯な努力に水を差すような言動は、決して好ましいものではありませんね。しかし、実のところ「十善戒」を完全に守り抜くことは、私たち僧侶であっても極めて困難なことです。例えば「不殺生」一つをとっても、私たちは日々、他の命(肉や魚など)をいただかなければ生きていくことすらできません。
ですから、「戒律を意識し生活することは無益か」というお問いに対しては、決して無益なはずがないと力強く申し上げます。完璧に守れない現実を知りつつも、一段ずつ階段を上るように自らを律しようとする日々の努力にこそ、大きな意義があるのです。
また、私ども浄土真宗においては、戒律を厳格に守り抜くことよりも、阿弥陀如来の海のように広く壮大なお慈悲にすべてをお任せする「他力」の考え方を大切にしております。人間は自力で迷いを断ち切れない不完全な存在ですが、その不完全な者をそのまま救い取るのが阿弥陀様のお慈悲です。
ゆえに「完全に守らなければ仏道を歩めない」ということは決してありません。どうか自信を失うことなく、ご自身なりの尊い仏道をこれからも心穏やかに歩み続けてくださいませ。
拝
縁起寺 釋聴法
生きることも戒律も一瞬ごとの善悪の連続
日本仏教では、戒律について少し誤解があるように思えます。
五戒とか十善戒とかの項目を一年の抱負のように掲げて「一生涯」守れるかどうかを目指すことが多いように見受けられます。
そして、どこかである「戒律項目」を破ったところで、「ああ、私は戒律は守れないのだ」と、それまで守ってきた頑張りも全否定して嘆くのです。一生涯の完璧を目指して、ダメになったところで、いきなり0点だ、となるのです。
実際には、戒を守ってきて、悪を犯さなかった部分が、「善をなした」という具体例がなさそうに見えても、「心も言葉も体も悪で汚さなかった」という善行為なのです。一回犯した破戒ではなく、そこまでの、戒を犯さなかったところを評価すべきです。極端な話、毎晩晩酌する人でも、朝起きてから夜になるまでは飲まずに済んでいる、と、自己評価してもいいのです。守れない部分だけでなく、守れた部分に注目してください。自分の心を戒めたから、その期間だけでも戒を守れたのです。
特に在家の場合、戒律は「抱負」です。一応、一生涯頑張るのですが、何かの項目を破戒したところで、それを反省して、また頑張ればいいのです。抱負を実行できないなら、年頭に抱負を持つのをやめなさい、とはなりません。頑張って、少しでも抱負に近づいた分が、善行為です。頑張らなければ0点です。
戒も、一生涯守るつもりで、四、五回破ったら、破戒者でダメだ、では、割に合わないでしょう。「一生涯守るといつも気をつけていたので、破ったのが四、五回で済んだ」と、頑張った分の努力を認めるべきです。
人間には戒は守れない、とか、人間には悟れない、とか、努力を否定するのは仏教の教えではありません。釈尊も大弟子たちも、人間なのに戒を守り悟りました。人間は自力で悟ることができます。
自分などの心の能力が劣った者には戒は守れない、悟れない、と考えてもいいです。しかしそれもまだ怠けているだけで、仏道に入っていないと言えます。
何もしなければ何の善にも、心の成長にもなりません。0点です。「一生涯戒を守る」といきなり100点を目指すつもりで頑張っていいのですが、「今日は一日戒を守れた」とか「午前中は守れた」とか「この誘惑には打ち勝った」などと、一瞬ごとの心を戒めることが、本当の戒律に沿った生き方だと言えます。戒を破っても、直後からまた頑張るのがコツです。
浄土宗の教師として申し上げます。
はじめまして。どなたが「在家では戒律を守れない」とおっしゃったのかは存じませんが、「では出家であれば守れるのか?」については、あまり言及されなかったのではないかと思います。
まぁ他人は他人。あなたや私にとって、戒律(律は本質的には出家者のものですが)を、どのように受け止め、生活に生かしていくか。それは大切な問いだと思います。
こういう言い方をすると揚げ足を取られることもあるのですが、私は「守れなかった時にどうするか」が肝要だと思っています。もちろん、約束は守れるに越したことはありません。しかし、達成できないこともある。人間だもの。その「できなかった自分」を直視した時、次にどうするか。そこに修行があるのではないでしょうか。
相談文を拝見していて一つ感じたのは、あなたは実際に十善を生活の中で意識しておられるということです。もし何も実践していなければ、「守れない」「これでよいのだろうか」という悩みそのものが生まれません。
相談文には「一段ずつ階段を上がるように」とありましたが、私は修行とは少し違うようにも思います。階段なら、一段上がれば戻ることはありません。しかし人間は、昨日できたことが今日はできなかったり、同じことで何度もつまずいたりします。それでもまた歩き出す。その繰り返しではないでしょうか。
仏道とは、失敗しない人になる道ではなく、自分という人間を知り続ける道なのだと、私は思っています。今日はできた。今日はできなかった。そのたびに自分を見つめ直し、また歩き出す。その姿勢こそが、仏道なのではないでしょうか。
ですから、「完全に守れないなら無益だ」と私は思いません。むしろ、守ろうと願い、迷い、振り返り、また今日を歩こうとする。その問いを持ち続けていること自体が、すでに仏道を歩んでいる姿なのだと感じました。私は、その歩みを大切にしていただきたいと思っています。
質問者からのお礼
温かいお言葉を頂きありがとうございます。仰せの通り、繰り返し学び続ける姿勢を保ちつつ仏道を歩んで参ります。
新たにお答えくださりありがとうございます。仏様が結んでくださったこのご縁を大切にこれからも邁進致します。



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