過去を独立した因果として捉えてよいのか
過去の経験を、独立した因果として捉えて良いのでしょうか。
私は21歳までに、ASD、二次障害、養育者からの情動無効化や役割逆転、支援の構造的な不一致、問題行動、いじめ2件、高校中退、精神障害(対人トラブルや激しい行動変容を伴う)、医療機関での治療不全、そしてアイデンティティの崩壊を経験しました。特に問題行動や精神障害期には、倫理観がありながら苦痛を回避するために行動してしまう面があり、短期的な回避より長期的な後悔が強く残りました。後に認知的共感が発達し、他者の心情をより具体的に想像できるようになったことで、過去の行動と自分の道徳的な自己概念が衝突し、自己像が崩れました。
私は以前、「自分が人を傷つけたなら罰を受けないと不公平だ」と考え、誰かに傷つけられた時も、それを自分への罰として捉え、帳尻を合わせるように生きてきました。この考えは幼少期からあり、例えば自己表現の困難さから「男の子に告白された」と周囲に言ってしまった際にも、「嘘をついたら家族まで地獄に落ちるかもしれない」と恐れ、「現実で悪いことをしたら地獄に行かずに済むよう、罰を与える人生にしてください」と願ったことがあります。
また、人を傷つけた人間が何事もなく生きることを許せない気持ちもあり、自分だけはそうならないよう、自分の経験を重く受け止めることを大切にしてきました。
しかし今は、自分の行動であっても自分一人だけで作られたものではない、と考えるようになりました。一つの逸脱行動にも、個人要因、環境、運、タイミング、その他の条件が複雑に絡みます。逸脱せず倫理的に行動できること自体にも、それを可能にする条件や資源が関係していると思っています。
そこで、
①自分が誰かに傷つけられたこと、
②自分が誰かを傷つけたこと、
③その他の不幸、
④その他の良い経験を、すべて別々の因果として捉えてよいのでしょうか。
「これをしたから罰を受けた」「これをしたから良いことが起きた」と結びつけず、複数の因果が絡み合って起きた出来事として捉えてよいのでしょうか。なお行動の結果や責任は引き受けます。
要するに、これまでの出来事 全て含めて、「個人・環境・その他の不遇な因果が複数重なって、このような人生になった」と捉えてもよいのでしょうか。
実際は当たり前のことなのかもしれませんが、あまり 慣れていない 考え方なので不安です。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分にも周りにも優しさや感謝を向けて。帳尻が合っていく。
様々な経験が、あなたに見る角度や視野を広げ、想いを巡らせ、深く捉えていけるように成長に繋がってきたのですね。ここに至るまでに、どれほどの葛藤や困難があったことでしょうか。よくここまで、乗り越えてこられましたね。
因果の捉え方ですが、別々の因果でもあるでしょうし、網目のような縁で交わることもあるかもしれませんし、それは誰にもわからないことです。それに対して、何を「与えた傷」「受ける罰」として捉え、どのように帳尻が合うのか。それも全てあなたの測り方で行ってきて、どこまでいっても自分都合で収めたものでしかないのです。それは、とても苦しくて縛られた捉え方ですよね。そして、帳尻を合わせてきたにも関わらず、今も悩み苦しい。
自己内省は大事だと思います。仏様はね、自分の生き方に自覚を、常に我が身を顧みて、と厳しくもあり。それでも、思うようにいかないこの世で煩悩を燃やしながらでも、もがきながら生きる私たちを、見捨てないよと願ってくださいます。人間は、不完全な存在でもあるのです。帳尻を合わせながらでも、罪に向き合おうとする姿に、慈しみを向けてくださいます。そして、自分の幸せを第一に考え、想いのままに生きようとする姿もまた、気にかけてくださるのです。
私は、そんな仏様に助けられ、支えられてきました。因果がどのように絡み合い影響したとしても、仏様がそばについていてくださると安心を頂いていますし、口について出るのは、感謝のお念仏なのです。
人は、直接に認識していること以上に、様々な縁に結ばれていて、多くの恩恵をいただいているのです。今までも、これからだって。ですから、因果だけを捉えていくよりも、恵みを感じながら、自分にも周りにも優しさや感謝を向けていけるようにしませんか。それがすでに、帳尻合わせになっているのではないでしょうかね。
出来事には負の意味も正の意味も添えられる
あなたはすごく賢い。
文章からも高い知性を感じます。
だからもっと賢くなったらいい。
それは事実というものと評価というものは違うのだということを知ること。
あなたは人生において確かに衝撃的な、ショッキングな、凄まじい経験を重ねた。
いや、厳密には重ねていない。
その都度その都度あった。
いやもっと言えば、その時その時に確かにそれはそういう風なことがあったけれども、今はそのことからも離れている。
厳密に言えば、ここで記したようなことも今、さっき、その時に、新たに一つ一つを思い返しただけ。
もっと言えば、今思い返すと負のイメージの強いことばかりをピックアップして、その負のコレクションみたいに並べてみただけ。
ん?まてよ、でもその出来事は確かに私にとっては当時は嫌な思いだったけれどお、今の評価が少し違う角度で行われると、心のダメージは少ないぞ?どういうことだろう。
事実は事実で、評価は思いの上でやっている事だから、、、か。
「出来事には負の意味も正の意味も添えられる」とは、なるほどそういうことか。
では、
私の問いを改めて。
「過去を独立した因果として捉えてよいのか」
いいじゃないですか。
確かに、独立しているのですから。
ならば、さらに究極の独立❝出離❞❝出家性❞を目指すことです。
出家性とは自由性の事。
昨日は昨日。
過去は過去。
小学生時代は小学生時代。
中学生時代は中学生時代。
今は今。
独立している。
つまり、今日は今日で独立している。
午前中は午前中で六律している。
午後は午後。
夕方は夕方で独立している。
夜は夜で独立している。
もっといえば、さっきはさっきで独立している。
今も今で独立している。
ついさっきの事は問い返しても返ってこない。
前のことをいくら扱うにしても、、、
その扱っている時はいつだろうか。
今だ。今です。今でしょ。今です。
では、過去を思い返すということは今を用いて今という時をいたずらに過ごしてしまっていることではないだろうか。
だから、悩むときは悩んでいい。
でも、その後は悩みは引きずらない。
疑問が晴れれば、その後はその悩みは私自身の体も悩むことを希望していないのだから、過去から独立、自由になって、今日を、今を自由に楽しんで謳歌しよう。
気づいて頂きたい。
私の身心はいつでも過去の事から自由で清らかで安らかなんだと✨
質問者からのお礼
丹元 覚元 様
私の問いに対して、意図や論点を的確に捉えた上でご回答いただき、ありがとうございました。
賢い、と言っていただき嬉しかったです。
まだ古い認知は残っていますが、今後は認知を更新して行けるよう、努力していきたいです。
中田 三恵 様
自己内省の姿勢を肯定していただき、ありがとうございます。
私自身も、誠実に現実に向き合うことには必ず意味がある、と思っていたため、それが報われることを信じて生きて生きたいと思います。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
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(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )