マントラについて教えてください
ハタヨガとクンダリーニヨガを生活に取り入れています。
初心者なので、ガヤトリーマントラとサタナマ瞑想を毎日しています。
きちんと勉強できる場所へ通ったほうがいいのはわかっているのですが、色々とあり、今は自己流でしている状況です。
先日の猫の一件以来、更に熱心にマントラを唱えるようになりました。そして、十三仏真言も三回ずつ唱えることにしました。
そして、最近になって気になり始めたのですが・・・ガヤトリーマントラやキルタンクリヤはヒンズー教で、十三仏真言は仏教ですよね。同時に唱えて問題ないのでしょうか?
気になり始めてから、マントラを唱えるたびに背徳感があるので、はっきりさせたいと思っているのですが、教えていただけませんでしょうか。
また、今日のことですが、サタナマ瞑想をした後、ベッドに横たわっていたら、突然尾てい骨のあたりがグルグル回り始めました。
これがチャクラなのだろうか?と思い、意識を向けたのですが、その回り方は身体に直角に交わる感じで時計回りに回っていました。
私はこのまま、瞑想やマントラを続けていて良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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貴方様の柔軟な感性へ敬意を表します
マントラとは真実の言葉であり、み仏の世界へ真っ直ぐに入るための聖なる言葉です。人間のいのちと心のはたらきは身体と言葉と心を通じて表れ、三つが煩悩と無智に穢れていれば悪しき結果を招くく三業(サンゴウ)となり、慈悲と智慧に満ちていれば自他の苦を除き自他を幸せにできる三密(サンミツ…3つのみ仏のはたらき)となります。そして人間存在の核である霊性の色合いが多種多様である通り、霊性に顕れる仏神もまた多種多様です。ちなみに「般若心経」という経典の題名は「如来の境地に感応し、プラジュニャー・パーラミターなる瞑想法を実践した観音菩薩が念誦すべきマントラを示す経典」(宮坂宥洪師の言葉を参照)となります。そして般若心経の終わり近くでは、こう説かれています。「これこそがすべての煩悩を鎮める。これこそが究極の真実である。人間の思慮を超えており、何らの偽りもないゆえに。プラジュニャー・パーラミターの修行法において念誦すべきマントラは次のように解かれている。」続いて「ぎゃてい、ぎゃてい~」というマントラが示され、お経は終わります。この経典に惹かれる人は、観音様がこのマントラを唱えながら深い瞑想へ入って掴んだ空(クウ)の真実に感応しておられるのでしょう。たとえ無意識にであろうとも。身体と心をきちんと整えて至心に唱えるならばマントラはすべて、み仏や神々の世界へ入るための尊いカギとなるのです。そして前述の通り、人間の根本的なありようが多様である限り、魂が感得する仏神も多様であり、なんぴとたりとも、その内心へ立ち入ることも縛りつけることもできません。そもそも仏神とは、自己中心的で、空(クウ)なるありようをなかなか理解できない私たちとは異なった慈悲と智慧の結晶体であり、凡夫がつくる対立や争いや苦悩や憎悪を離れた存在であればこそ、仏であり神と言えるのではないでしょうか。だから、貴方様がヨガの修行に用いるマントラを唱える一方で、み仏へ十三仏様のマントラを唱えようと、それが貴方様の内心において共存できている限り何ら問題はありません。当山の人生相談には貴方様と似た疑問や悩みをお持ちの方々がたくさんご来山されています。人と人を対立させるものは、畢竟〝人〟です。せっかく日常生活的時空から離れていのちと心のはたらきを清め活性化しようとしておられるならば〝人〟の原理から離れてみたいものですね。ご精進を祈っています。合掌
質問者からのお礼
遠藤様
お礼が遅くなり失礼いたしました。
投稿後にお礼のコメントをしたと記憶しているのですが、また反映されていたことを記憶しているのですが、記憶違いだったのでしょうか。
大変申し訳ありませんでした。
その後、マントラを安心して唱えております。
煩悩から離れたくてマントラを唱えているのに、心が平安になると、煩悩が恋しくなります。
平安であり続けることは難しいことですね。
ありがとうございました。
遠藤様
お礼が遅くなり失礼いたしました。
投稿後にお礼のコメントをしたと記憶しているのですが、また反映されていたことを記憶しているのですが、記憶違いだったのでしょうか。
大変申し訳ありませんでした。
その後、マントラを安心して唱えております。
煩悩から離れたくてマントラを唱えているのに、心が平安になると、煩悩が恋しくなります。
平安であり続けることは難しいことですね。
ありがとうございました。
改めて感謝を申し上げたく、コメントをさせてください。
その後、猫との関わり合いは続いています。
私の中の大きな変化として、どのような対応をする時であっても、心が揺れないようになってきました。
それは、私の「悩み」は、自分で作り上げた幻だと実感できたからです。
問題が起きた、その時に対する執着心によって時間の経過を受け入れられず、悩みを持つことで、その時間に居続けようとしていたのだと思います。
これが空(くう)というものなのかわかりませんが、私の中では納得のいく感覚を得ることができました。
「私」という存在を無にできるように、菩薩として生きていけるように、般若心経を唱えていきたいと思います。
ありがとうございました。