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親の法事に参列できないかもしれない不安

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有り難し有り難し 6

兄がお墓を継いでいます。

父の年忌法要が近づいているのですが、私にも親戚にも何の連絡もありません。電話をしてみましたが着信拒否されていて話すこともできません。
私も親戚もこのまま法要に参列することはあきらめるしかないのでしょうか?

法事法要は祭祀継承者から案内のない者は参列できないものなのでしょうか?

(兄の了解を得ず)お寺に直接日時を確認するのは不躾ですか?知り得た日時で突然参列するのは失礼でしょうか?

参列が叶わないとして、法要当日に遠方より想うことが参列できない者としての供養でしょうか?もしくは個人的にお寺を訪問しお経をいただくのが供養でしょうか?先祖代々の仏様には毎日手を合わせ普段より想いを寄せています。

なにとぞご指南をよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

天にある月は誰のものでもない

その手の相談事はお寺に寄せられることがあります。
ですから一家の祖霊の名付け親でもある菩提寺さんに連絡して、よきお取り計らいをしてもらうことです。法事の参列は問題ないです。
最悪の状態として、兄弟で別々に法事をなさる方もいますが、対話をする機会でもあります。
兄弟間の結婚、親の死後の遺産相続モメなどで親族の関係が疎遠・不和になってしまうケースは少なくありません。
ですが、適切な表現ではありませんが「亡き人は誰のものでもありません」。
お墓を守っていくのが限られた人であるとしても、供養の心は平等です。
天にある月は万人を照らしますが、誰のものでもないように、取り合うこと自体がおかしなこと、自然の法則(仏法)に逆らうことが我見なのです。
兄弟間で親の遺骨、お墓、法事を取り合うことほど親泣かせな嘆かわしいことはありません。
ですが、この問題は単に、長男が兄弟、親族を巻き込みたくないという❝社会性の欠如❞に問題があると思います。過去に問題があったこととおもいますが、それはそれとして、供養は供養。
人間の学びは何歳になっても続きます。
たとえば7、80代でいまだに暴力的な人や差別的な人は沢山います。
そういう人たちは、そのままでのさばらせておいていいのかと言えば、年齢が上だったら何でもいいということではありません。
互いの人間性の回復の為にも、互いの人間性の向上の為にも何としても、コミュニケーション能力を最大限に引き出して法事に参列し、お兄さんが今進んでいこうとしている道は社会的にも外れた、人の道に外れた行為であるという事を、何らかの形で気づいてもらうべきであると感じます。
これ以上もめるのは嫌でしょうが、メインは兄弟間の対話を❝深く❞することとするのです。
ただ、このご質問もあなたサイドで答えていますが、あなたにも非はあるとも思っています。
ただでさえ日頃会話が無いのでしょうから、相手の壁を乗り越えてでも神仏の御前、無き親御さんの御前で私的感情や私見の無い対話をなさるべきです。
「誰がも自分は正しいと思っている。」
この言葉を聞いて「ああ、兄は本当に自分が正しい」と思ってしまったらあなたもも自分に目を向けていないのです。他者(兄)が非は他者の非。それはそれとして自らが非は自ら向き合うべきです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

親御さんのご法事をされるお寺さんにご相談を

文面だけでは解らない事も多いのですが、
今あなたが親御さんのご法事で悩んでいる事をすっかりと そのお寺さんに相談されてみてはいかがでしょうか?

もしかしてお兄様は法事の申し込み等をしておられない可能性もあるかもしれません。

お兄様が着信拒否というのもおだやかではありませんが、何か事情が解るかもしれません。
もしかしたら、何かお兄様のご家庭で怒っている可能性もあるやも知れませんし、
もし、単に親族と上手く行っていないなどの理由でしたら、やはりそれは
菩提寺のご住職にご相談するのが一番かと思います。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。自身は参列したいと希望は持っているものの、それを権利のように主張してよいのか、兄がそういう考えであるならそれを受け入れるべきなのか悩んでいました。参列してよいとするなら、どういう方法をとればよいか、参列できないとすればどう気持ちを整理すればよいか悩んでいました。まず菩提寺に確認してよしというご意見により一歩を踏み出してみようと思います。ありがとうございました。

更なる回答をいただきありがとうございます。かみしめながら拝読しております。お察しの通り未解決の諸問題を抱えており、今回この様となった次第です。

思い切って菩提寺に相談してみましたところ、まだ法要の日時の予約が無く、お寺様も気にしておられた所で、あわせてお取りなししていただける事になりました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ