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やっぱり娘とうまくいかない

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有り難し有り難し 64

何度も相談してすみません。
先日 娘との関係修復の件で相談し心暖まる回答を頂きまして関係修復を心がけていました。でも度重なる娘の暴言で私の心は憎しみと怒りでいっぱいになってしまいました。何でわかってくれないんだろうって思います。うちは経済的に余裕がないのにあれこれ買ってお金を汚い言葉で請求してきたり死ねって言われたり勉強もせずに汚い部屋で朝まで携帯を触っている娘を見て関係修復どころか最低な人間だと思ってしまいます。私も離婚のショックでひどい生活になりまして今はなんとか抜けつつありますが娘にばかり親が望むようないい子を求めるのは私が親になりきれてないのでしょうか?

もう娘のこと諦めようかなとも思ってしまいます。いっそのこといなくなってくれたらいいのになどと最低なこともよぎってしまいます。
本当は娘と仲良くしたいけど暴言はかれるとやっぱり怒りの感情が出てきてこちらも負けじと汚い言葉で、返してしまいます。

またわからなくなってしまいました。せっかく前向きになっていたのに娘の言動で奈落の底に突き落とされます。娘の顔も見たくないです。これからもこんな関係がずっと続いていくんだったらもう耐えられないかもしれません。
お叱りの言葉でもかまいません。真摯に受け止めたいと思いますのでよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

娘にやっているつもりでも「あなたのこと」しかしていないかも?

娘のことを心配しているようにみえますが、チョット違うと思います。
ぶっちゃけ自分のことのためにやってばっかりなんじゃないスか?(*'▽')
娘が思い通りになってくれないことに「困って」いるでしょう。困るということは「自分」がある。
悩んでいるということは「娘よりあなた自身をあなたが心配している」ので、それはリアルラブではありません。自分ラブです。いーんです。最初は誰でもそんなものです。
何をしようがそれはお子さんの命。
お子さんの自己責任。
まずは親として「困る」こと=「アタシが困る」を無くしてください。もっと達観してください。
私が困る事をしないで頂戴、という気持ちがどこかに強くあるでしょう。まずはそれを感じることから。
それがご自身の「都合」というものなのです。
子供はみんな気づいています。
それに気づいて、離婚、占いのこと、全部一度詫びる事です。心を開けば愛の方向性があなたの中で変わるので、お嬢さんも懐くようになります。
気づかないものですが、人というものはそのくらい自己中心的な生き方をしてしまっているのです。
だからこそ、真の親子共存が必要なのです。
その一番のベースが家庭です。
家庭でこそあえてオフィシャルな場として、相手の尊厳を認めてあげてください。
あなたはあなたのルールを相手に敷いている所が強いのかもしれません。
彼女にとっても家は、自分のルールでいたいところなのです。
そのテリトリーをあなたルールで支配しようとするれば相手は苦痛です。
あなたは親の立場で接しているのではないでしょうか。
対等に接しませんと子供はバカにされているような感覚で、いう事を聞きません。むしろ抑圧に感じるのでそれが嫌なので、母親から距離を取りたがるのです。
違ってたらすみません。
家庭内再構築を頑張ってください。
いざという時は、電話でスピーカートークやスカイプなどで3者通話いたしましょう。
二者間では感情的になって辛いものがあると思います。
今日は、お嬢さんに「あなたに厳しく当たってきたことでお坊さんから叱られて凹んでるワ。申し訳ないと思ってるから、罪滅ぼしでオイシイもの作りたいから何食べたいか教えて」とでもメールしてみてください。反応が無くても、4回まではやりましょう。本当に本当に相手のためになることというのは、自分がこれよかれと思ってやることではないものなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様 回答ありがとうございました。
4月18日 朝からお世話になったものです。その
節はお世話になりました。

今回の回答ですが まさしくそうなんです。私がとてもとても困っているんです。私の都合ですね。反省しなければいけませんね。丹下様の回答を何度も読み返します。怒りにまかせての相談をしてしまいましたが丁寧に回答を頂きましてありがとうございました。お忙しいところありがとうございました。

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