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先輩になかなか振り向いてもらえずつらい

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僕は大学生なのですが、サークルの先輩の女の子に恋をしてしまいました。
彼女の些細な善意がもしかすると好意なのではないかと度々思い巡らし浮かれては、それが他の男性に対しても同じように振りまかれていることに気づき心が沈む。これを繰り返す日々です。

これではいけないと何かアプローチをしようと思ったこともあるのですが同じサークルに属していることもあり、関係が壊れるのを恐れてデートやご飯に誘ったりすることもできずただサークル内だけにとどまった先輩後輩としての関係に落ち着いてしまっています。

また男である僕が後輩側である点も男としてはなかなか悩ましく、加えて僕がアトピーなため付き合うこと自体がそもそもおこがましいのではと感じてしまいます。

このところ酷く悩んでしまい落ち込んでばかりで、またtwitterで彼女と他の男性との絡みなどを監視(?)してしまうなど少しストーカー気質になってきてしまっている気がします。

基本的にネガティブ思考なのもあって、ポジティブであろうとしたり考えないようにしてみてもすぐに負な考えが思い浮かび、極端だとは思いますが本当に生きるのがつらく感じてしまいます。

こんな風にすぐに悩み落ち込んでしまう性格の僕は一体全体どうすればいいのでしょうか。いっそのことこの恋は諦めてしまった方が楽になれるでしょうか。
長文申し訳ありません、ご教授よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

確実にフラれます

私がその先輩女子だとします。(男じゃ)
そんなウジウジ君は頼りないと思います。
そうこうしている間に他の口のウマいオトコに口説かれてしまいます。
あなたはあなたの想いに既に負けています。
フラれてナンボです。
そんな素敵な方ならば沢山の男性が言い寄ってくるでしょう。
それでも、撃沈覚悟で突き進めばいいじゃないですか。
そしてフラれればいいのです。
思い通りにならんことをいやという程、教育されます。その学びは力になります。失恋程男を強くさせるものはありません。と、同時に、男をくしゃくしゃにするものはありません。
優先順位を申し上げますと、
このままウジウジしながらストー化ーしていくか、フラれてでも告白すべきか、黙っていて他の男子にかっさらわれていくのをティッシュを加えて見守るのか。
どのみちフラれるんですよ?(フラれるんかい)
だったら直接フラれた方が諦めがつくというものです。
まずは、手ごたえを感じるために食事にでも誘ってみてください。
タイトルは、「そのままでは、確実にフラれます。」…ということです、あなたが自分のそのネガティブ意識を今、断ち切って、フラれても、ネガティブにならないようにするために告白すればいいではないでしょうか。
フラれた後「フラれた…(ノД`)・゜・。」ではなく、
「やっぱりなー、あーフラれちまったかー(笑)」とポジティブにフラれりゃいいじゃないですか。(フラれるんかい)
そこで、フラれません!絶対に自分に負けません!と言ってほしいのですよ。
そうすれば、今あなたは、そのネガティブ意識もアトピーに対する自己嫌悪も断ち切れるからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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